~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
継体天皇の登場
六世紀後半になると、大規模な古墳が造られることはなくなり、また前方後円墳ではなく、方墳や円墳、八角墳が多く造られるようになりました。このことから、朝鮮半島を支配した騎馬民族が海を渡ってやって来て、新たな王朝を建てたのではないかという学説が、戦後になって盛んに唱えられた時期もありましたが、今日では荒唐無稽な説として完全に否定されています。この説が一時期受け入れられた背景には、戦前の皇国史観への反動と朝鮮人に対する贖罪意識という側面がありますが、歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚われることは避けなければなりません。
古墳の形が変わったことには、同じ頃に第二十六第 継体 けいたい 天皇が即位したことが関係しているのかも知れません。
継体天皇は歴代天皇の中で最も謎の多い人物です。継体天皇について詳しく書こうとすれば、それだけで一冊の本になるほどです。『日本書紀』には、五〇六年に第二十五代 武烈 ぶれつ 天皇が崩御した時、皇位継承者が見当らず、 越前 えちぜん (現在の福井県北部) から応神天皇の五世の孫である 男大迹王 おおどのおう を、迎えたとあります。翌年、男大迹王は即位して天皇となりますが (継体天皇の名は死後の諡号) 、何とこの時、継体天皇五十七歳でした。平均年齢が三十歳未満であったと考えられている当時としては大変な高齢です。さらに奇妙なことに、継体天皇が都入りするのは即位後十九年も経ってからです。
そもそも五代も遡らなければ天皇 (応神天皇) に辿りつかない人物に、しかも五十七歳の老人に天皇を継いでもらいたいとお願いするのはいささか不自然です。ちなみに応神天皇の息子は十一人いて、彼らの四代後には相当な数の男子がいたと考えられます。にもかかわらず、先代・武烈天皇の四世以内の血縁男子が一人もいなかったというのは不自然ですし、高齢の継体天皇が即位してから十九年も都入りしなかったというのは奇妙です。
それ以上に腑に落ちないのは、継体天皇の一代前の武烈天皇に関する『日本書紀』の記述です。そこには「しきりに諸悪を造し、一善も修めたまはず」と、悪逆非道な天皇として描かれています。たとえば、妊婦の腹を裂いて、胎児を取り出したり、爪をはぎ、その手で芋を掘らせたり、人を木に登らせて、その木を伐り倒し、人が落ちて死ぬのを見て楽しんだり、という残酷な記述が多数あるのです。天皇の偉大な業績を記録するためにあるはずの『日本書紀』にこのような記述があることは、普通に考えれば変です。
しかし、継体天皇の代で一種の政変があったとするなら、むしろ納得がいきます。
「武烈」という怖そうな諡号もさもありなんですし、「継体」という諡号も、きわめて暗示的な名です。
現在、継体天皇の時に、皇位簒奪さんだつ (本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること) が行なわれたのではないかと考えている学者が少なくありません。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかという説です。継体天皇が即位してから十九年も都を定めなかったのも、その間、前王朝の一族と戦争をしていたと考えればしっくりくるというわけです。
私もこの説に一定の信憑性があるのではないかと考えたりもしました。しかし、そうだと仮定したら、“皇位簒奪者”の継体天皇、なぜ新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったかという疑問が生じます。中国では、天が王朝を見限った時、新たな王朝が生まれるという「易姓えきせい革命」という思想があり、新王朝は前王朝を徹底的に否定するのが伝統です。
しかし日本ではそうではありませんでした。継体天皇の時代には、すでに「万世一」という思想が根付いていたのだと私は考えます。当時「天皇」(実は天皇という言葉が使われるのは七世紀になってからのことで、それまでは大王おおきみと呼ばれていた) という存在は、それ自体が権力ではありましたが、単に武力や統治力を持っているだけでなく、象徴的な存在でもあったと思われます。
「天皇は万世一系でなければならない」という不文律があったからこそ、『日本書紀』に、不自然な記述をする必要があったとは考えられます。皇統を継ぐ者として血統は不可欠であり、継体天皇もまた、天皇の正式な系譜を継いだ人物だ強調する必要がありました。同じことは先の「仲哀天皇から応神天皇」の流れにも見ることが出来ると私は考えています。
もちろん『日本書紀』の記述通り、継体天皇は五代遡れば応神天皇にいきつくというのは事実かも知れません。ただ、仮にそうだとしても、即位してから十九年も都に入らなかったということは、即位を巡ってかなりの権力闘争があったことを示唆しているようにも思われます。後世の例になりますが、約四百二十年後に「平将門たいらのまさかどの乱」という事件が起こりま。この時の朝敵である将門も五代遡れば桓武かんむ天皇に行きつきます。つまり仮に将門の反乱が成功していたなら、将門も万世一系の天皇ということになります。こうしたことから継体天皇の即位も遠い血筋を持った同族の反乱であった可能性が高いと思われます。しかし『日本書紀』はそれらを押し隠し、継体天皇を正統な後継者としています。
私はここに、日本における「天皇」の不思議な力を見る思いがします。単なる権力とは別次元の存在として、日本の歴史に常に見えない力を及ぼし続ける。それが天皇なのです。
いずれにせよ、継体天皇は日本史上で極めて重要な人物です。というのも、歴史学者や考古学者の間で、実在が確実と見做されている最初の天皇が、継体天皇だとされているからです。『古事記』や『日本書紀』にある、神武天皇の祖先が神という記述が科学的に必ずしも正しくないといえるように、初期の天皇に関する話も不明な部分が多く、「史実」とするには無理がある部分が多いのです。その意味では、継体天皇をもって皇室の歴史がはっきりと始まったということもできます。
なお、本書では継体天皇以降の政権を「大和朝廷」と呼ぶことにします。
2025/08/14
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