~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
聖徳太子
推古天皇を摂政として補佐したのが 聖徳太子 しょうとくたいし です。もっとも聖徳太子という名前は死後の おくりな であり、生前は 厩戸皇子 うまやどのおうじ と呼ばれていました。近年、学校の教科書では、厩戸王と表記しようという流れになっているようですが、ここでは昔ながらに聖徳太子と表記します。生前の名前の表記が正しいとするなら、現在、諡号で表記している歴代天皇もすべてそうしなければならなくなります。
『日本書紀』によれば、聖徳太子は大伯父にあたる蘇我 馬子 うまこ とともに政治の実権を握ると、太子は大陸から仏教を入れ、国内に広めました。
この頃、大陸には強大な軍事力を誇る ずい 帝国が誕生していました。朝鮮半島の百済、新羅、高句麗は隋の 冊封 さくほう を受けます。「冊封」とは政治的に従属するという意味で、直接支配はされないものの、隋の臣下になるということです。冊封国の首長は隋の皇帝から「王」に任ぜられます。
新羅に軍を送った同じ六〇〇年に、聖徳太子は、新羅の宗主国である隋との関係を良好に保つため、遣隋使を送りました。このあたりはしたたかな外交感覚といえます。この時、」大和政権が中国との交渉に臨むのは約百二十年ぶりのことでした。ただしこの記録は『 隋書 ずいしょ 』のみあり、『日本書紀』にはありません。
七年後の六〇七年に太子は再び遣隋使を送りますが、この時に託した隋皇帝宛の国書の書き出し、「 づる ところ の天子、書を日没する処の天子に致す、 恙無 つつがな きや」(日出處天子到書日没處天子無恙云々) という文章はあまりにも有名です。
隋の皇帝、 煬帝 ようだい はその国書を読んで激怒したと伝えられます。今日、その激怒の内容について少々誤解の向きがありますが、煬帝が怒ったのは、「日出づる~日没する」という表現よりも、おそらくは「天子」という言葉が使われていたからでした。
「天子」は中国の皇帝を指す言葉で、世界に唯一人の存在だったからです。ちなみに「王」は中国の皇帝が臣下に与える位のようなものでした (卑弥呼の「親魏倭王」や「倭の五王」など)。太子はこのような手紙を送ることで、隋に対して、「日本は決して冊封を受けない、隋と対等な国である」という気概を示したのです。
しかし煬帝は聖徳太子の国書を無視するということはしませんでした。逆に 答礼 とうれい 使を派遣し、日本の朝廷に、今後はそういう非礼はしないようにと伝えてきたのです。
朝鮮半島の三国をも支配下に収めた強大な隋が、東方の小さな島国の傲慢ともいえる国書に対し、わざわざ使者を送るというのは普通ではありません。これは、当時すでに日本という国が侮れない国力を持っていた証と考えられます。実際、煬帝は、日本を敵に回せば高句麗と手を結ぶかも知れないと心配したともいわれています。
太子も自国の力がわかっていたからこそ、強気な国書をしたためたのでしょう。朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対の思想と行動でした。現代の学者の中には、太子が礼儀も言葉遣いも知らずに国書を書いたという人もいますが、太子ほどのインテリがそんなことも知らなかったとは考えられません。
翌六〇八年、太子は三度目の遣隋使を派遣しました。このときは留学生るがくしょうをともなっているので、太子は日本の発展のために隋と友好条約を結び、優れた文化を取り入れる必要があると考えたのでしょう。しかしさすがに前回のような国書を書くわけにはいきません。かといって、日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになります。そこで太子は「天皇」という言葉を編み出しました。この時の国書の書き出しは、『日本書紀』には次のように記されています。
「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」
太子は「天皇」という言葉を用いることによって、中国の皇帝と対等の立場であるということを再度表したのです。おそらく煬帝は呆れたに違いありませんが、その言葉を使ってはならないとは日本に伝えた記録はありません。
これが日本における「天皇」という名称の始まりとなりました。それまで「大王おおきみ」と呼ばれていたものが、これ以降「天皇」という名称に変わります。「天皇」という言葉には、日本がどこにも従属しない独立不羈ふきの国であるという精神が込められているのいです。
2025/08/16
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