~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
飛鳥時代の文化
飛鳥時代は、仏教が広められたことで、華麗な文化が花開いた時代でもあります (厳密には前期の飛鳥文化と後期の白鳳はくほう文化に分かれる)。建築分野では、大阪の四天王寺してんのうじ、奈良の法隆寺など、日本独特の様式を持つ多くの寺院が建てられ、彫刻も薬師寺金堂薬師三尊やくしさんぞん像、法隆寺百済観音像をはじめとする数々の傑作が現存しています。
絵画の分野でも高松塚古墳壁画など、現代人の目で見ても見事なものが残されています。これらの彫刻や絵画は中国や朝鮮半島の影響が見られるものの、日本人らしい芸術、美意識が色濃く刻み込まれています。
減じんするものの素晴らしさもさることながら、多くの作品が戦乱や天災によって焼失あるいは紛失したにちがいなく、にもかかわらず千年以上経った現代に、少なくない仏像や絵画が残されているという事実に、私はむしろ大きな感動を覚えます。古墳の中に残されていたものは別にして、多くが、寺院の僧たちや、敬虔な貴族や民衆によって代々大切に守り継がれて来たものなのです。これじまさに「国宝」と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。
近年、外国人旅行者がこうした仏像に傷をつけたり、油をかけたりする事件が起きていますが、許されざる暴挙としか言いようがありません。
律令国家へ
中国大陸をおよそ三百七十年ぶりに統一した隋は、六一八年にわずか三代で滅び、代わって とう が統一王朝を建てました。唐の治世は約三百年にも及び、遣唐使などを通じて日本にも大きな影響を与えました。このため日本では、唐滅亡後も、中国大陸外国のことを指す時は「唐」という文字を付けて呼ぶようになり、現代もそうした言葉が多く残っています (「 唐様 からよう 」「 唐物 からもの 」など)。よく「中国は漢民族の国」といわれていますが、隋を建国した 楊堅 ようけん はもと北方騎馬民族の鮮卑です。隋を滅ぼした唐も鮮卑という説があり、いずれも漢民族ではありません。
この頃、日本では聖徳太子が亡くなり、蘇我蝦夷えみし入鹿いるかの父子が権力を握ります。
その権勢は天皇を上回るほどのものでした。これに危機感を抱いた皇極こうぎょく天皇の皇子である中大兄皇子なかのおおえのおうじ (後の第三十八代天智天皇) が、六四五年に蘇我入鹿を殺し、蝦夷を自害に追い込んで (乙巳いつしの変)、天皇による中央集権体制を整えました。
その後、中大兄皇子は都を飛鳥から大津おおつ (現在の滋賀県大津市) に移し、即位して天智天皇となると、唐を真似て中央集権体制を敷き、様々な法律を独自に訂正して、律令国家を築き始めます (この「近江令」と呼ばれるものは実在しなかったという説もある)。律令とは中国王朝の法体系を指す言葉ですが、「律」は刑法を、「令」は一般行政法を意味します。つまり律令国家とは、法に基づく国 (法治国家) ということです。それ以前の日本には成文化された法律はありませんでしたから、おそらく刑事や人々の争いごと (民事) は、経験則で処理されていたと思われます。
ちなみに当時、中国の冊封を受けていた国々(新羅やベトナム)の王は中国王朝の法を循守じゅんしゅ(従い守ること)する義務がありました。その意味でも、日本は中国の周辺国の中で特異な存在だったといえるでしょう。
なお、日本で初めて元号が用いられたのは、乙巳の変の後、幸徳こうとく天皇が即位した時とされています(西暦六四五年が「大化たいか元年」)。ただ継続的に元号が使われるようになったのは、文武もんむ天皇が「大宝たいほう」を建元した七〇一年からです。
2025/08/18
Next