~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
白村江の戦いと防人制度
日本が中央集権の体制作りを急いだのには理由がありました。それは唐の脅威に備えるためでした。隋を滅ぼした唐は強大な軍事力を誇り、六六〇年、新羅と同盟を結んで百済を攻め、これを滅ぼします。六六三年、日本は百済を再興するために五千人の兵を送りますが、 白村江 はくすきのえ (現在の韓国南西部の錦江河口付近)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。
唐・新羅の連合軍は、六六八年に高句麗を滅ぼし、ここに朝鮮半島に長年続いた高句麗・新羅・百済の「三国時代」が終わりを告げたのです。
この頃の日本には、未熟な造船技術と航海術しかなく、遣唐使でさも命懸けの渡航でした。そんな時代に、五千人もの兵士を送るのは大難事だったはずです。日本が百済のために派遣した兵は累計で二万七千人ともいわれていますが、人口三百万人前後と考えられる当時の日本で、総人口の一パーセント近くを海外に派遣するという事態は、国の総力を挙げた戦いだったといえます。造船や兵糧の準備を考えると、まさに国家的大事業だったにちがいありません。ましてや相手は大唐帝国です。単に百済が友好国だというだけで、ここまでするでしょうか。つまり大和朝廷にとって、旧百済地域の確保がなにより重要だったと考えるのが自然です。
そこで大胆な仮説を述べたいと思います。百済は日本の植民地に近い存在だったのではないか ── というものです。
根拠はいくつもあります。当時、百済には大和朝廷から派遣された重臣が駐在していましたし、百済が滅んだ後、多くの百済の貴族が日本に亡命しています。前述したように百済があった地方からは日本特有の前方後円墳が二十世紀以降にもいくつも発見されています。百済が日本の植民地に近いところだったとすれば、大和朝廷が総力を挙げて百済のために戦ったことも頷けます。
ただ現代の韓国の歴史学会では、百済が日本の支配下であった可能性を論じることはタブーとされており、研究対象にすらなっていません。それどころか戦後は、かつて百済があった地から前方後円墳が発見されると(前述したように年代は日本が古い)発掘調査もされずに壊されているといわれています。学問的真実よりも国のメンツが優先される現状では、史実究明は望めそうもありません。
話を七世紀に戻しましょう。白村江の戦いの後、日本は唐・新羅の軍隊が侵攻して来ることを恐れ、北九州に防衛のための「水城みずき」と呼ばれる土塁と外濠を設置し、「防人さきもり」と呼ばれる兵士を配置しました。防人は一種の徴兵です。現代でもそうですが、当時も防衛政策を誤れば国も民族も滅亡しかねません。おそらく大和朝廷は真剣に国の守りを考えたのでしょう。
防人の多くは東国の男たちでしたが、彼らは国を守るために、故郷を離れ九州に赴いたのです。同時代に編まれた『万葉集』には、防人や彼らを送り出した家族の歌が百首ほど収められており、「防人の歌」と呼ばれています。
幸いにして唐からの侵略はありませんでしたが、防人制度は十世紀まで残されました。
2025/08/18
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