~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
遣唐使
六六三年の白村江の戦いの後、日本と唐の正式な交流は途絶えました。戦いの直後に日本は三度遣唐使を送っていますが(六六五年、六六七年、六六九年)、これは国交正常化に向けた使節的なお見合いの強いものでした。日本は唐の侵略を警戒して防人を配置する一方で、国交正常化への努力もしていたのです。
唐との関係が修復され、正式に遣唐使が再開されたのは天宝二年(七〇七)のことです。遣唐使はすべて朝鮮半島を経由しない海路(主要なものは三メートルあった)を使っていました。
当時の造船技術と航海術は未熟なため(航海の必需品ともいえる羅針盤はまだ発明されていなかった)、大陸への渡航は命懸けでした。航海中に沈んだり、行方不明になった船も少なくありません。唐の 鑑真 がんじん ( 唐招提寺 とうしょうだいじ を建てた僧)が日本の僧に請われて渡日を試みるものの、航海に五度失敗し六度目でようやく日本に着くことが出来た事実を見ても(この時も船団の一艘はベトナムに漂着した)、渡航の危険がいかに大きかったかがわかります。
遣唐使の一番の目的は先進的な技術や知識、それに仏教の経典などでした。彼らはそのために命懸けの航海をし、唐に渡ってからも、知識を必死で吸収しました。『 旧唐書 くとうじょ 』には日本からやって来た使節たちが、唐皇帝から下賜された数々の宝物を街で売り、その金で膨大な書物を買い込んで帰国したという話が残されています。遣唐使たちにとっては、宝物よりも知識や技術のほうが大切だったのです。日本人の旺盛な知識欲と「国のために尽くしたい」という使命感を表しているエピソードです。
かつて「天子」を名乗ったことで、煬帝を怒らせた日本人でしたが、遣唐使の頃にはすでに天皇号を使用しており、唐皇帝と対等であったことを示していました。とはいえ形式的には唐に朝貢をしていましたし、朝廷は唐が日本を臣下の国とし見做していたのも承知していたようです(国内には内密にしていた)。事実、中国側の記録には、日本を対等に扱ったという記述はありません。
しかしながら他の周辺諸国が唐の冊封を受けている中で、この時代、日本だけが冊封を受けませんでした。つまり東アジアにおいて、実質的に唐の臣下でなかった国は日本だけだったのです。だからこそ日本はその後、唐文化とは異なる独自の文化を発展させることが出来たとも言えます。
日本は先進国である唐の文化や制度を無条件に輸入したわけではありませんでした。日本にとって不要と判断されたもの、あるいは害ありと見做されたものは受け入れませんでした。たとえば宦官かんがん科挙かきょの制度です。
凌遅刑りょうち(肉体を少しずつ切り刻んで殺す刑罰)や、「食人」の文化も入れませんでした。現在はあまり語られることはありませんが、中国には古代から近代に至るまで「食人文化」がありました。
日本がシャットアウトした何より大きなものは、中国の伝統である「易姓革命」という思想かも知れません。「易姓革命」とは簡単に言えば、「天は王朝に地上を治めさせるが、徳を失った王朝は天が見切りをつけて『革命』を起こさせ、別王朝を立てる」というものです。したがって新王朝は「天の命じるまま」前王朝の一族郎党を虐殺することも許されます。」中国王朝の入れ替わりで大量虐殺が起こるのはそのためです。正当なことだからなのです。
もし日本に易姓革命の思想を入れていたなら、世界でも例のない万世一系の天皇は存在しなったでしょう。ちなみに朝鮮半島は上記の中国文化や制度をほとんど受け入れました。彼らが自らを「小中華」と名乗るのにはそれ相応の理由があるのです。
2025/08/18
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