~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
「古事記」「日本書紀」「万葉集」の誕生
六七二年、天智天皇の死後、跡を継ぐことになった 大友 おおとも 皇子(天智天皇の皇子。明治になって 弘文 こうぶん 天皇の諡号を贈られるが、当時、天皇に即位したかどうかは不明とされている)に、叔父の 大海人 おおあまの 皇子(天智天皇の弟)が反旗を翻し、大友皇子を倒して天武天皇となりました。この内乱を「 壬申 じんしん の乱」と言います。
天武天皇は都を近江から再び明日かに移し、日本初の公式歴史書である『古事記』と「日本書紀』の編纂を命じます。蘇我氏は『天皇記』など数多くの歴史書を保管していましたが、「乙巳の変」で、それらの多くが書庫とともに焼失してしまいました。そこで天武天皇は、古くから伝わる古い歴史書の『帝紀』『旧辞』などを 稗田阿礼 ひえだのあれ 誦習 しょうしゅう させ、天武天皇の死後、それを 元明 げんめい 天皇が 太安万侶 おおのやすまろ に筆録させました。誦習とは書物を繰り返して読むことで、抜群の記憶力を持っていたと言われる稗田阿礼は内容をほぼ暗記していたと思われます。そうして『古事記』は 和銅 わどう 五年(七一二)に完成しました。
『日本書紀』もおそらく様々な資料の断片や人々の記憶、あるいは伝承神話などを元にして編まれた者と思われます。(完成は 養老 ようろう 四年【七二〇】)。ほぼ同時期に作られた『古事記』と『日本書紀』ですが、その内容は必ずしも一致していません(『日本書紀』はより多くの資料から編纂されたようで、異説や諸説が併記されている)
両書とも日本の古代史の一級資料ではありますが、書かれている内容はすべてが事実というわけではありません。現代でも研究者の間で、どこまでが伝説や脚色の類でどこからを史実と見るかで解釈が分かれています。したがってこの本でも、『古事記』と『日本書紀』に全面的に依拠して歴史を語るわけにはいきません。
ただ、私としては、日本人ならこの両書に書かれている日本の成り立ちくらいは押さえておいてほしいと願っています。とくに 伊弉諾尊 いざなぎのみこと (伊邪那岐命とも)と女神・ 伊弉冉尊 いざなみのみこと (伊邪那美命)がまぐわって(性交して)日本列島を生んだという神話は、日本人として知っておくべきことかと思います。この時、二人の神が出会う際に、「女から声を掛けてはいけない」という教訓めいた話が出てきますが、なんとなく日本人らしい物語でもある気がします。
天照大神(天照大御神)も伊弉冉尊と伊弉冉尊の子であり(ただし『古事記』では伊弉冉は関与していない)、天上の 高天原 たかまがはら から地上に降りたった 瓊瓊杵尊 ににぎりのみこと は天照大神の孫です。そのため瓊瓊杵尊の物語は「天孫降臨」といわれています。初代天皇の神武天皇は瓊瓊杵尊の曽孫にあたり、天照大神からすると五世孫にあたります。つまり皇室は神話と繋がっているというわけです。
これらの神話が記されている『古事記』は古い漢語を基本に日本独特の文法を混ぜた変体漢文で書かれ、『日本書紀』は純然たる漢文で書かれています。つまり『古事記』が自国民に向けて書かれたものであるのに対し、『日本書紀』は対外的(対中国)に書かれた史書と見られているのです。
この頃に詠まれた歌を四千五百首以上集めた『万葉集』が編纂されたのはもう少し後の時代です。『万葉集』は現存する最古の和歌集ですが、この中には、天皇や皇族や豪族といった身分の高い人々の歌だけでなく、下級役人や農民や防人など、一般庶民ともいえる人々が詠んだ歌も数多く入っています。つまり当時の日本では、歌を詠むという行為はごく普通の たしな みであり、決して選ばれた人たちだけのものではなかったことがわかります。しかも優れた歌の前では身分は一切問われませんでした。その証拠に、遊女や乞食(芸人)といった当時の最下層の人々の歌も万葉集には収められています。
また権力争いに敗れた朝敵と見做される人物の歌や、防人歌ののように故郷を遠く離れて九州の前線に配置される兵士の悲哀を嘆じた歌も入っています。受取りようによっては政権や政策批判とも見える歌でさえ収録されているのです。。ここには、歌において罪や思想は問わないという姿勢が見られます。千三百年も前にこれほど豊かで成熟した文化を持った国が世界にあったでしょうか。私は『万葉集』こそ、日本が世界に誇るべき古典であり文化遺産であると思っています。
さらに『万葉集』は日本文学における第一級の史料であるのみならず、この時代の方言やなまろが入った歌もあったため、言語学、方言学の観点からも一級の史料となっています(詠み人の出身地も記載されている)。表記はすべて万葉仮名まんようがなです。当時、仮名文字がなかった日本では、漢字の音を日本語に当てて使っていました。これを万葉仮名といいます。ただし、そこには厳格な統一性はなく、一部には漢文も混ざっていて、その読み方はとても難解です。
ところで、平成三一年(二〇一九)四月三十日、天皇の譲位により、翌日の五月一日から令和の御代となりましたが、この時に定められた新元号の「令和」という文言は、万葉集から採られました(巻五の「梅花の歌三十二首、併せて序」【原文は漢文】より)。約千三百年の間、元号の文言は一貫して漢籍(中国の古典書籍)から引用されていましたが、二十一世紀になって初めての元号が和書から引用されたことは、新しい時代の到来を象徴する出来事だったと思います。
2025/08/22
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