『日本書紀』には初代の神武天皇から第四十一代持統天皇までの歴代天皇の業績が記述されていますが、私が脾臓に興味をそそられるのは、第十六代仁徳天皇に関する記述です。特に次に記すエピソードは、当時の天皇が国と民をどう見ていたかを示すものです。意訳・簡略化して記します。
仁徳天皇四年二月六日、仁徳天皇が高台から遠くを見て、臣下の者に言われました。
「高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。都の内ですらこの様子だから、地方ではどんなであろうか」
そして三月二十一日に、「今後三年間、すべての課税をやめ、人民の苦しみを柔らげよう」と言われました。
その日から、天皇は衣や履物は破れるまで使用され、宮殿の垣は壊れたままで、屋根に穴が開いても修理をしませんでした。こうして三年が経ち、五穀豊穣が続き、人民は潤ってきました。
七年四月一日、天皇が高台に登って一望されると、人家の煙は盛んに立ち上がっていました。そして皇后に言われました。
「私は富んできた。これなら心配ない」
それを聞いた皇后が、「なぜ富んできたと言えるのでしょうか」と聞きました。
「竈かまどの煙が国に満ちている。人民が富んでいるからだ」
「宮の垣が崩れたままで、屋根は破れ、御衣が濡れているのに、なぜ富んでいると言えるのでしょう」
「天が人君を立てるのは人民の為である。だから人民が根本である。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば、自分自身が富んだことになるのだ」
九月、諸国の者が奏請し、「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。今、人民は豊かになりました。こんな時に税をお払いして、宮室を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」と申し上げました。けれども、天皇はまだ三年間税を免除しました。
この話が現代に書かれたものならば、まず為政者を褒めたたえるために創作されたものではないかと疑うでしょう。二十世紀の社会主義国家には、このような話がいくらでもあります。自らを正当化する強力なプロパガンダが不可欠な為政者にとって、そうした逸話は重要なものだからです。
しかし古代の為政者は大衆の人気取りをする必要はありません。選挙など当然ないし、インターネットはおろかテレビもラジオも新聞も本もない時代なのですから、前述のエピソードを大衆に広めることさえ出来ません。つまり創作する理由がないのです。したがって、仁徳天皇は本心からそのような発言をしたのだと考えられます。
『日本書紀』には、このエピソ-ドの後に�、六年後、初めて宮殿の修理を課せられた民衆の姿を描いた文章が続きます。
「民、うながされずして材を運び簣こを負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ」
民を思う天皇に感謝した民衆が、自発的に宮殿の修繕に参じ、我先にと争うようにして働いたため、あっという間に修繕が終わったというのです。「大御心おおみこころ」(天皇の心)と「大御宝おおみたから」(国民)という、天皇と互に思い合う関係はこうして出来上がってうったのでしょう。
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