天智天皇と天武天皇は『日本書紀』によると兄弟ということになっていますが、実はここには謎があります。日本書紀』に天武天皇の生年が書かれていないからです。天皇の生年の記述がない例は他にもありますが、『日本書紀』編纂を命じた天武天皇の生年が書かれていないというのはあまりにも不自然です。生年を正確に記すと都合の悪いことがあったのではないかと考えられます。
天智天皇は『日本書紀』では病死したことになっていますが、平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』には、京都の山科やましなの山の中に入って、そのまま帰って来なかったと書かれています。そこで残されたものたちは、靴が見つかった場所を陵にしたといいます。現在、その地には御廟野ごびようの
古墳があり、天智天皇が被葬者とされています(これは天智天皇陵でほぼ確定している)。この記述が謀殺の可能性を匂わせることから、天智天皇と天武天皇は兄弟ではないという説があります。もちろん文献的な証拠はありませんが、もし二人が兄弟でないとすると、「壬申の乱」で天武天皇が天智天皇の息子(大友皇子)と争ったことにも合点がいきます。天武天皇に関しては、他にも不思議な話がいくつか残っていますが、本書ではそこには深入りしないことにします。
|