~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
平城京
八世紀初め、飢饉と疾病が続発し、多くの死者が出ました。そこで第四十二代文武天皇が疫病で崩御した際、第四十三代元明天皇(文武天皇の母)は藤原京から平城京へ遷都することを決めたとする説があります。現代人からすれば、そんな理由で遷都するのは不合理にしか思えませんが、当時の人々は飢饉や疫病も人知を超えた存在のせいだと考えていました。遷都を決めたのもおそらく、神官あるいは僧の助言、もしくは陰陽師おんみょうじ の言葉のようなものに従ったと思われます。
なお前述したように文武天皇は七〇一年に元号を「大宝」とし、以後、令和の現代に至るまで元号が使われることとなります。本書でも、これ以降、年代を元号で記すこととします。
和銅三年(七一〇)に朝廷は都を藤原京から平城京(現在の奈良市と大和郡山市の一部)に移し、以降七十年余りを奈良時代と呼びます。
この頃、全国を結ぶ交通路が整備され、官道(現代の国道)には一六キロごとに駅家うまやが設けられていました。駅には馬が常置されて、公的な文書の逓送ていそうも行なわれていたというから驚きです。交通路の発達により、商品流通も盛んになりました。
朝廷は貨幣を鋳造して普及につとめましたが、一般には浸透せず、人々は米や布を現物貨幣として用いていました。
農民の疲弊
農民は収穫物から三パーセントを国に収めればよいということになっていた(これはと呼ばれる税である)、これ自体厳はしいものでははありませんでしたが、男性には調ちょうようといった税、さらには 雑徭ぞうようと呼ばれる労役があり、これが重負担でした。都の造営や仏寺の建立に使用される時は、季節は考慮されなかったため、農繁期に一家の大黒柱を使役に取られれば、その家は没落の危機に瀕します。また一家の長が防人や衛士えじといった兵役任務に就かされることもありました。いずれにも逃亡する者があとをたたず、その家が滅ぶようなことが少なくありませんでした。折角班田収授法という素晴らしい制度を作りながら、無配慮に農民を使役したことは残念だったといわねばなりません。
また平城京の時代は人口が増え、それにより口分田の不足という問題が浮上しました。そこで朝廷は養老七年(七二三)、新たに未開地を開墾した場合は三代まで所有(異説あり)できるという「三世一身法さんぜいっしんのほう」を施行します。ところが三代目になると、まもなく没収されるというので、手入れをせずに再び荒地になるところが目立ってきました。そこで朝廷は天平てんぴょう一五年(七四三)、開墾した土地は永久に私有地と認める「墾田永年私財法」を施行します。皮肉なことに、この法律により、公地公民の原則が崩れてしまいました。
というのも、貧しい農民には荒地を開墾する余裕などない一方、貴族や寺社は奴婢や浮浪人(戸籍を離れて他国へ逃げた農民)などを使い、また周辺の貧しい農民を雇って、大掛かりな開墾をすることが出来たからです。こうして一部の支配層による土地の私有が進んでいくことになります。
2025/08/24
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