八世紀初め、飢饉と疾病が続発し、多くの死者が出ました。そこで第四十二代文武天皇が疫病で崩御した際、第四十三代元明天皇(文武天皇の母)は藤原京から平城京へ遷都することを決めたとする説があります。現代人からすれば、そんな理由で遷都するのは不合理にしか思えませんが、当時の人々は飢饉や疫病も人知を超えた存在のせいだと考えていました。遷都を決めたのもおそらく、神官あるいは僧の助言、もしくは陰陽師
の言葉のようなものに従ったと思われます。
なお前述したように文武天皇は七〇一年に元号を「大宝」とし、以後、令和の現代に至るまで元号が使われることとなります。本書でも、これ以降、年代を元号で記すこととします。
和銅三年(七一〇)に朝廷は都を藤原京から平城京(現在の奈良市と大和郡山市の一部)に移し、以降七十年余りを奈良時代と呼びます。
この頃、全国を結ぶ交通路が整備され、官道(現代の国道)には一六キロごとに駅家うまやが設けられていました。駅には馬が常置されて、公的な文書の逓送ていそうも行なわれていたというから驚きです。交通路の発達により、商品流通も盛んになりました。
朝廷は貨幣を鋳造して普及につとめましたが、一般には浸透せず、人々は米や布を現物貨幣として用いていました。
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