平城京の時代は権力争いや反乱が絶えませんでした。
六年(七二九)の
長屋王
の変、天平一二年(七四〇)の藤原
広嗣
ひろつぐ
の乱などが立て続けに起こります。興味深いのは、これらの争いが、天皇を殺して自らが頂点に断とうというものではなく、天皇の側近になるため、あるいは天皇を自らの
傀儡
かいらい
とするためのものであったことです。
つまりこの時代にはすでに、天皇は不可侵な存在となっていたことが見てとれます。これは後の時代の争いや内乱すべてに共通することとなります。
こうした度重なる政変に加えて、天然痘の流行などもあり、動揺した第四十五代
聖武
しょうむ
天皇は天平一二年(七四〇)に平城京を出て、都を
恭仁
くに
京(現在の京都府
木津川
きづがわ
市
加茂
かも
地区)に移します。その後、
難波宮
なにわのみや
(現在の大阪市中央区)、
紫香楽宮
しがらきのみや
(現在の滋賀県
甲賀
こうが
市)と遷都を繰り返し、五年後の天平一七年(七四五)に再び平城京に戻しました。
聖武天皇は、世の中の乱れを仏教で救おうと、天平一三年(七四一)に全国に
国分寺
こくぶんじ
・
国分尼寺
こくぶんにじ
を建てることを命じ、また天平一五年(七四三)には
盧遮那仏
るしゃなぶつ
造立の詔を発しました。これが東大寺の大仏の制作宣言です。
大仏には約五〇〇トンも銅と三七五キロの金が使われましたが、これは当時としては莫大な量でした。制作には七年の歳月(七四五~七五二)をかけましたが、その間、延べ二百六十万人が工事に携わったといわれます。まさに国家的大事業たったわけですが、このため国家財政は窮乏し、労働に駆り出された農民の生活は一層苦しくなって土地から離れる(逃亡を含む)者が増え、律令体制の基本であった公地公民の制度は崩れていきました。
現代的な視点で見れば、庶民の生活を苦しくする大仏造立など無駄な事業のようにも思われますが、これは天皇の私利私欲のために行なわれたのではありませんでした。
「責めは
予
われ
一人にあり」これは聖武天皇の残した言葉としてつとに有名です。飢饉や天然痘の流行は、自らの
政
まつりごと
に問題があるからだと自責した天皇は、大仏を造って仏教を盛んにすることが人々を救うと信じていたのです。古墳時代の巨大な古墳建設とは根本的に異なる思想に基づいており、多くの民衆もまたそれを信じていました。当時、仏教はそれほど大きな力を持っていると考えられていたのです。
聖武天皇の后である
光明
こうみょう
皇后も篤く仏教を信仰し、孤児や貧しい人の保護施設である
悲田院
ひでんいん
や、病人に薬や治療を施す施設である
施薬院
せやくいん
を建て、自ら病人の治療に当たりました。
農民が疲弊する一方で、多くの土地を得た貴族が財を成すと、彼らの権力争いが一層激しくなりました。
天平勝宝
てんぴょうしょうほう
九年(七五七)に
橘奈良麻呂
たちばなのならまろ
宝字
ほうじ
八年(七六四)には
恵美押勝
えみのおしかつ
の乱などが起こり、理想の政治はくらついていくことになります。
大仏と大仏殿はその後、治承四年(一一八〇)と永禄一〇年(一五六七)に二度災上しましたが、いずれも時の権力者によって再建されています。現存する東大寺の大仏は大部分が江戸時代に補修されたものですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに、一部、造立当時の部分が残っているといわれています(諸説あり)。昭和三三年(一九五八)に国宝に指定されました。
この時代はシルクロードを通って唐の都。長安に集まって来たインドや中東の文化・文物を遣唐使らが持ち帰ったことにより、日本にも国際的な色彩を持った文化が花開いたといえます。
正倉院にはこの頃に渡って来たペルシャやインド、唐のガラス器や楽器、焼き物などが今も数多く残っています。正倉院はもとは東大寺の倉庫でしたが、その中に貴重な品々が千二百年以上も保管されてきたというのは本当に奇跡のようなことです。
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