仏教の振興は皮肉なことに寺院や僧侶の力を増すことへとつながりました。彼らは政治にも
容喙
し始め、それを嫌った第五十代桓武天皇は、
延暦
えんりゃく
三年(七八四)、平城京から長岡京へ遷都します。長岡京は長い間、「幻の都」とされていましたが、戦後の発掘調査により、平城京に匹敵するほどの巨大な都であることがわかりました。
長岡京に遷都したもう一つの理由は交通の便でした。平城京では物資や人の移動は陸路しかありませんでしたが、長岡京には桂川。宇治川、淀川があったため、様々なものを効率よく運ぶことが出来ました。平城京で問題となった下水問題も解決しました。住民たちは道路沿いの川の水を家の中に引き入れ、排泄物を流していたのです。
そのため都は常に清潔さを保っていました。幕末に日本を訪れた西洋人が一様に驚いた日本の街の清潔さは、実はそれよりも千二百年以上も前から実現していたのです。
しかしこの素晴らしい都はわずか十年で平安京へと移されます。歴史に現れない権力闘争があったのか、より大きな都を作るためだったのか、理由ははっきりおしません。もしかしたら、長岡京は平安京を作るためのモデル都市であった可能性もありますし、あるいは後述する「祟り」を恐れて遷都された可能性もあります。
平安京も長岡京もその前の平城京も、唐の長安を模して作られた都ですが、いずれの都にも長安とは決定的な違いがありました。それは、城壁がないということです。
これは後の時代まで日本の都市(都)の特徴となっています。
都市というのは、食料と物と人の集積所ですから、これを襲って奪えば、大きな利益を得ることが出来ます。そのため、ヨーロッパや中国の都市の多くが堅固な城壁を周囲にめぐらして、街全体を守る構造となっています。
しかし日本は飛鳥時代以前から都市から城壁をなくしました。これは単一単語を持つ民族であるあることと、日本列島が四方を海で囲まれていやことが大きかったと考えられます。西洋史や中国史と日本の歴史を見比べて、何よりもその違いに驚かされることといえば、ヨーロッパや中国では当たり前のように行なわれてきた民衆の大虐殺がないということです。これは非常に幸運であると同時に、誇るべき歴史だと思います。 |