「日出づる処の天子」という国書を送ったのは聖徳太子ではないという説があります。
『随意書』には、六〇〇年に書を送ったのは倭の多利思比孤 (原文では多利思北孤) という名の王であると書かれているからです。妻の名は雞彌けみ
、皇太子の名は利歌彌多弗利りかみたふりとありますが、いずれも『日本書紀』にはない名前です。さらに倭 (『隋書では「倭」となっている) の都は「邪靡堆やまたい」で、噴火する阿蘇山があると書かれています。これらのことから多利思比孤は、九州の豪族だったのではないかと言う学者がいます。また『日本書紀』には聖徳太子がそういう書 (「日出處天子」云々) を送ったという記述はないのです。
しかし、『隋書』には、倭では官位が十二階級に分かれているという記述があり、これは聖徳太子が定めた「冠位十二階」と符合します。また六〇八年に送った国書の「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」(こちらは『日本書紀』にある) という書き出しは、前年の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文と構図が同じであり、さらに「天皇」という言葉が、この後、大和朝廷では用いられていることなどを併せて見て、私は「多利思比孤」なる人物が聖徳太子か蘇我馬子を指すと見て間違いないと考えています。 |