~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
武士の誕生
前章で述べましたが、公地公民制度の崩壊と共に始まった貴族や大寺社による土地の私有化は、平安時代に入って一層加速しました。同時に貧富の差が開いていきます。裕福な貴族や有力な寺が収得した土地は荘園と呼ばれましたが、当時は正確な地籍図もなく、所有地も曖昧なところもあり、土地をめぐる争いは日常茶飯事でした。
そこで貴族たちは荘園を守るために用心棒のような男たちを雇うようになります。土地を守るため(あるいは奪うため)の用心棒である彼らは、戦いに備えて常に武装していました。一方、寺では下級僧侶たちが自ら武装するようになりました。これを僧兵といます。
地方でも、国司として派遣された下級貴族の一部が土着して、土地を私物化するようになると、これを守るために自ら武装集団化しました。彼らは武芸を収得して戦闘の専門家となり、それが家業として受け継がれていきます。そしてやがて武士と呼ばれる存在となったのです。武士の別名は「さむらい」ですが、これは「貴人に従う」を意味する「さぶらふ」(侍/候ふ)に由来した言葉です。武士はその後、明治維新まで九百年以上も存在し、日本社会の精神を象徴するものとなっています。
ただ、初期の武士集団とは、敢えていうなら現代のヤクザのような存在でした。実際、昔の武士と現代のヤクザには共通項が多いといわれています。まず「親分子分の関係が強固」「法よりも力とスジにおのを言わせる」「縄張り意識が強い」などです。
その武士が、時代が下がって権力を持つようになると、彼らの中に独特の武士道という思想が育まれていきました。
こうしていつのまにか地方に有力な武士が誕生し、彼らは棟梁とうりょうと呼ばれる者を頂点とする一族を形成するようになります。その中で有力な一族となったのが、関東を中心として勢力を広げた平氏へいし と、摂津せっつ河内かわち(ともに現在の大阪府)を中心に勢力を広げた源氏げんじです。平氏は第五十代桓武天皇の流れを汲む皇族出身、源氏は第五十六代清和せいわ天皇の流れを汲む皇族出身であり、ともに家格の高さから武士たちの尊敬を集め、やがて大きな勢力を持つに至ります。
藤原氏の台頭
平城京の時代の終わり頃から財力を持った貴族が増えていきましたが、中でも藤原氏の財力はずば抜けていました。藤原氏は飛鳥時代の 中臣鎌足 なかとみのかまたり を始祖とする一族です。鎌足という人物は謎が多く、身分の高い中大兄皇子の右腕となって「乙巳の変」で活躍したことで異例の出世を果し、臨終に際して天智天皇から藤原姓を与えられました。そしてその子の不比等の時代に、大きな権力を得ます。
不比等は実は天智天皇の子供だという説があります。平安時代後期に編まれた歴史物語の『大鏡』には、天智天皇が鎌足に妊娠中の女御(天智のお手付き)を下げ渡す時に「男児が生まれたら鎌足の子とし、女児が生まれたら朕が引き取る」と言った伝説が書かれています(同じ話は『帝王編年記』『尊卑分脈』のもある)。現代の歴史学者の間では、公式の文献的証拠はないという理由から否定的意見が多数を占めていますが、平安時代には多くの人々に信じられていたようです。ただ、不比等の異例ともいえる出世(不比等は最初、 ふひと でしたが、後に並ぶものはないという意味の不比等といういう字に変えている)、また鎌足の二人の息子の中で藤原姓を名乗ることが許されたのは次男の不比等だけということから、「天智天皇ご落胤説」を取る学者もいます。もちろん真実は不明です。
不比等の四人の息子(藤原四兄弟)は四つの家系(南家なんけ北家ほつけ式家しきけ京家きょうけ)を起こしましたが、そのうち京家は早くに没落します。残り三家が競い合いますが、政争や一族の氾濫などで南家と式家も平安時代初期に衰退し、北家だけが栄えることになります。平安時代に栄華を極める藤原氏とはこの北家のことです。
藤原氏(ほっけ)は平安時代の中期から、一族の娘を次々と天皇に嫁がせ、天皇の外戚として力を振るうようになります。藤原氏の当主は摂政や関白として天皇の代わりに政治を執り行なうようになりますがこれを摂関政治といいます。遣唐使の停止を進言した菅原道真も藤原氏の策略によって失脚させられ、九州の大宰府に左遷されました。
藤原氏が最も権威を振るったのは十一世紀の道長みちながの時代です。道長は長女の彰子しょうしを、一条いちじょう天皇の后に、次女の妍子けんし三条さんじょう天皇の后に、三女の威子いし(その上に異母姉の寛子がいる)後一条ごいちじょう 天皇の后にし、天皇を思うがままに操ったのです。その上ライバルを次々に失脚させ天下を意のままにしました。この頃、道真が詠んだ「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名です。この世は自分のためにあるかのようで、欠けた部分のない満月のようだ、という全能感に酔った歌です。
しかしながら、ここで留意すべきところがあります。道長は皇室に嫁がせた娘が生んだ男子を次々に天皇にしていますが、息子の教通のりみちの妻である内親王(天皇の娘)を女性天皇にはしていないことです。もし仮にそんなことが起きれば、道長の息子の子が天皇になる可能性があり、その瞬間に男系の万世一系が途絶え、藤原朝に代わります。したがっていかに権力を持っていた道長でも、それは出来なかったのでしょう。これは平安時代後期に絶対的な権力者となった平清盛もおなじです。
余談ですが、一条天皇には二人の后がいて、その一人、定子ていし(道長の姪)に仕えたのが随筆『枕草子』を書いた清少納言であり、もう一人の后の彰子(道長の長女)に仕えたのが長編小説『源氏物語』を書いた紫式部でした。前述した紫式部のライバル心は、そうした立場上のことも理由となっていたのかも知れません。
さて、歳月は日を経るごとに欠けていきます。道長もこの歌を詠んだ直後から、次々と不幸に見舞われるようになりました。まず本人が身体の不調をきたし、次に息子が死に、二人の娘も死亡しました。道長は、これらは自分が政争で負い落した者たちの祟りに違いない、と恐れるようになります。そんな彼は臨終に際し、地獄に落ちることを恐れ、自分が建てた法成寺ほうじょうじの九体の阿弥陀如来の仏像の手と自分の手を糸で結んで、僧侶に念仏を唱えさせながら事切れました。
2025/08/31
Next