前章で述べましたが、公地公民制度の崩壊と共に始まった貴族や大寺社による土地の私有化は、平安時代に入って一層加速しました。同時に貧富の差が開いていきます。裕福な貴族や有力な寺が収得した土地は荘園と呼ばれましたが、当時は正確な地籍図もなく、所有地も曖昧なところもあり、土地をめぐる争いは日常茶飯事でした。
そこで貴族たちは荘園を守るために用心棒のような男たちを雇うようになります。土地を守るため(あるいは奪うため)の用心棒である彼らは、戦いに備えて常に武装していました。一方、寺では下級僧侶たちが自ら武装するようになりました。これを僧兵といます。
地方でも、国司として派遣された下級貴族の一部が土着して、土地を私物化するようになると、これを守るために自ら武装集団化しました。彼らは武芸を収得して戦闘の専門家となり、それが家業として受け継がれていきます。そしてやがて武士と呼ばれる存在となったのです。武士の別名は「侍」ですが、これは「貴人に従う」を意味する「さぶらふ」(侍/候ふ)に由来した言葉です。武士はその後、明治維新まで九百年以上も存在し、日本社会の精神を象徴するものとなっています。
ただ、初期の武士集団とは、敢えていうなら現代のヤクザのような存在でした。実際、昔の武士と現代のヤクザには共通項が多いといわれています。まず「親分子分の関係が強固」「法よりも力とスジにおのを言わせる」「縄張り意識が強い」などです。
その武士が、時代が下がって権力を持つようになると、彼らの中に独特の武士道という思想が育まれていきました。
こうしていつのまにか地方に有力な武士が誕生し、彼らは棟梁とうりょうと呼ばれる者を頂点とする一族を形成するようになります。その中で有力な一族となったのが、関東を中心として勢力を広げた平氏へいし
と、摂津せっつや河内かわち(ともに現在の大阪府)を中心に勢力を広げた源氏げんじです。平氏は第五十代桓武天皇の流れを汲む皇族出身、源氏は第五十六代清和せいわ天皇の流れを汲む皇族出身であり、ともに家格の高さから武士たちの尊敬を集め、やがて大きな勢力を持つに至ります。
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