~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
「祟り」について
ここで「祟り」について触れようと思います。 いにしえ の日本人は、非業の死を遂げた人に怨霊となって世の中や人に祟ると信じて非常に恐れました。疫病が流行ったり、天災が続いたりすると、それは祟りのせいだと考え、怨霊を鎮めるための祭を行なったり、神社を作ったりしたのです。
仏教が入って来ると、怨霊を鎮める「 御霊会 ごりょうえ 」と呼ばれる儀式が行なわれるようになり、朝廷は何度も大掛かりな御霊会を行ないました。実は日本の歴史を見ていくと、この怨霊を恐れるという思想が、日本人の心の底に根強く残り、幕末の頃まで続いていたことがわかります。明治維新以後、西洋風の合理主義が入り込んだことで、私たち現代人は「祟り」や「怨霊」を非科学的なものとして排除するようになりましたが、歴史を見る際には、かつて日本人がそうしたものを恐れていたことを忘れてはなりません。当時の人々の行いが「祟り」や「怨霊」を恐れたゆえのものであったことが少なくないからです。
平安時代の人々が恐れおののいた「祟り」の一つが、「菅原道真の祟り」でした。
藤原時平ときひら讒言ざんげんを信じた醍醐だいご天皇によって大宰府に左遷された道真は、二年後にその地で亡くなりますが、「祟り」はそれから数年後に起きます。以下、「祟り」で死んだとされる人と年代を記します(わかりやすくするために西暦で記します)。九〇六年、道真の左遷のきっかけを作った藤原定国さだくにが死亡。九〇八年、同じく左遷のきっかけを作った藤原菅根すがねが落雷により死亡、九〇九年、左遷の首謀者である藤原時平が死亡。九一三年、道真の後任となったみなもとの光が沼にはまって死亡。九二三年、時平の甥で皇太子の保明やすあきら親王が薨去こうきょ。九二五年保明親王の息子慶頼よしより王も薨去。
醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて、彼の左遷を取り消し名誉を回復させますが、祟りは収まりませんでした。延長えんちょう八年(九三〇)、天皇が政務を行なう内裏の清涼殿に雷が落ち、道真の大宰府での動向を見張っていた藤原清貫きよつらが直撃を受けて死去します。衝撃を受けた醍醐天皇は八歳の朱雀すざく天皇に譲位しますが、にもかかわらず、その七日後に醍醐天皇は崩御します。朝廷は道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮を作り、そこに道真の霊を祀ると、ようやく祟りは収まりました。少なくとも当時の人々はそう真剣に信じていたのです。
この一連の事件を目の当たりにした当時の人々は、「祟り」の恐ろしさをあらためて知ることになります。この時、藤原氏でただ一人、藤原忠(道真を追い落とした首謀者であった時平の弟)だけは無事でしたが、彼は生前から道真に同情し、大宰府に送られた後も励ましの手紙などを送っていた人物でした。忠平一人が祟りを受けず、その後、摂政・関白にまで出世したことが「祟り」の信憑性をさらに高めることとなります。前述の藤原道長が晩年、自分が追い落とした人たちの祟りをひどく恐れていたことも想像に難くありません。
もちろんこれらの出来事は偶然の産物です。しかし当時の人々は、人知を超えた怨霊の仕業と考え、不遇の死を遂げた人物の祟りがないよう、その霊を鎮めるため、神社や寺を建てて御霊みたまを祀りました。この「死者が祟る」という考え方は、しばし日本史を読み解く際の「鍵」ともなります。
2025/09/01
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