~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
武士の反乱
都で藤原氏が我が世の春を謳歌している頃、地附の政治は乱れていました。十世紀に入った頃には、国司などが土着して地元の武士のリーダーとなり、独自の支配体制を築く者も現われ始めました。
「平将門の乱」はそんな折の象徴的な出来事でした。下総しもふさ(現在の千葉県北部と茨城県西部あたり)猿島さしまを本拠としていた平将門は、承平じょうへい五年(九三五)に一族の内紛から伯父を殺すと、やがて国府を攻略し、関東の大半を支配します。天慶てんぎょう二年(九三九)には、自ら親皇と称し関東に独立国を建てようとしました。
同じ頃、伊予(現在の愛媛県)に役人として赴任、その後、土着して海賊の首領となっていた藤原純友すみともが朝廷に反旗を翻します(藤原純友の乱)。ただし、将門も純友も統制の取れた軍勢ではなく、朝廷の遣わした武士や地元の武士に鎮圧されました。
朝廷は二人の共謀を疑いましたが、これは偶然でした。この二つの乱は、それが起こった時の元号から「承平・天慶の乱」とも呼ばれています。後に『将門紀しょうもんき』という物語が生まれましたが、これは我が国初の「戦記文学」ともいうべきものです。
摂関政治の弊害
将門と純友の乱が起こっても、都では藤原氏や他の貴族が一族同士で勢力争いに明け暮れていました。十世紀後半になると、争いは外戚の地位をめぐるもおになります。外戚とは、この場合天皇の妃の一族のことですが、貴族たちは摂政や関白になるため、自分の娘を天皇や皇太子に嫁がせて、外戚になろうとしたのです。当時は妻の家で子供を養育していたので、天皇の子や皇太子の子に対して外戚は大きな影響力を持っていたのです。彼らは摂政や関白となって実権を握ると、幼い天皇に代わって政治を行ないました。いつも頃からか摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていたため、藤原氏は「摂関家」と呼ばれるようになりました。
藤原氏は政治を意のままに動かし、自らの持つ荘園の税も朝廷に納めなくなります。このため田畑を有する開発領主やその子孫たちは自分の土地を藤原氏に寄進して、その恩恵に与ろうとしました。藤原氏は広大な土地を所有することとなり、さらに大きな力を持つようになっていきました。
2025/09/02
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