この時期の日本は遣唐使の停止に見られるように、国際関係には目を向けず、内向きな政治になっていました。かつては九州地方に朝鮮半島や中国からの侵略に備えていた防人制度も十世紀には実質的になくなっていました。平安時代の日本は雅な王朝文化が花開く一方で、国の安全保障を忘れた一種の平和ボケの時代でもあったのです。
しかし実は九州沿岸や対馬や壱岐では、平安時代になった頃から朝鮮半島の新羅からの侵略行為にしばしば悩まされていました。九世紀初めから十世紀にかけて数十回の襲撃に晒されました。大きなものとしては、「
弘仁
の新羅の賊」(弘仁二年【八一一】)、「
貞観
じょうがん
の入寇」(貞観一一年【八六九】)、「寛平の韓寇」(寛平五年【八九三】)「
延喜
えんぎ
の新羅の賊」(延喜六年【九〇六】)「
長徳
ちょうとく
の入寇」(長徳三年【九九七】)などがあります。なお、「寇」とは外国から攻めて来るという意味の文字です。これらの侵略行為はなぜか現代の日本史の歴史教科書ではほとんど教えられることはありませんが、明らかに日本の主権を脅かす侵略行為であるだけに、しっかりと教えるべきだと思います。その規模も大きく、「弘仁の新羅の賊」では新羅人が長崎の五島列島に上陸し、島民百名を連れ去りました。「長徳の入寇」は高麗人が九州全域を襲い、多くの民家が焼かれ、男女三百人が攫われました。また「寛平の韓寇」は新羅政府による百艘の船に乗った二千五百人」の兵士による対馬侵攻作戦でした。
日本側はそのたびに
弥縫
びほう
的な対応を取るのみで、防備を著しく強化するということはしませんでした。それどころか前述したように防人制度さえなくす始末です。また新羅へ強硬な抗議や報復行為さえも行ないませんでした。このひたすら自制するという態度が、度重なる侵略行為を招いたとも言えます。
その結果、
寛仁
かんにん
三年(一〇一九)に「刀伊の入寇」と呼ばれる大事件が起きました。
これはそれまでの新羅や高麗によるものとは違い、
女真
じょしん
族(刀伊)による侵略行為でした。女真族は沿海州(現在のロシアの沿海地方)に住む狩猟民族で、後に中国の宋を脅かし金という国を建て、さらに後には明を滅ぼして清を建てました。当時、「東夷」と呼ばれていたものを「刀伊」の字を当てたものです。
「刀伊の入寇」はそれまでの侵略行為の規模とはまるで違いました。刀伊は五十艘の船に三千人の男を乗せ、対馬、壱岐、筑前、肥前などを襲いました。対馬では島民三十六人が殺され、三百四十六人が攫われ、生存者はわずか三十五人という記録があります。また多くの家屋が焼かれ、夥しい家畜が殺されています。全体では殺された人は三百人以上、攫われた人は千二百人以上というすざましい被害です。
これに敢然と立ち向かったのが、太宰権帥だざいのごんのそち(大宰府の次官)であった藤原隆家たかいえです。
隆家は藤原道長の甥でしたが、叔父との折り合いが悪かったため、若い頃に左遷され、出世とは程遠いところにいました。天下の「さがな者」(荒くれ者)として知られ、権威をものともしない性格で、数々の逸話があり、清少納言の『枕草子』にも登場しています。いうなれば、はにだし者だったわけですが、この隆家が九州の武士団を率いて、刀伊を撃退したのです。隆家は後方から司令を出すだけでなく、自ら前線に立って戦ったと伝えられています。
都に「刀伊の入寇」の知らせが届いたのは、隆家が刀伊を撃退した後でした。そのため朝廷は、驚いたことに当初、「(片付いたなら)恩賞は与える必要なし」としました。後になって恩賞が与えられることとなりました、命懸けで人命と領土を守った戦いに報いるもものとは思えないくらいの低いものでした。いかに当時の朝廷が国の防衛について認識が低かったのかがわかります。 |