~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
武士の台頭
「刀伊の入寇」から九年後の万寿まんじゅ五年(一〇二八)、関東で平忠常ただつねが乱を起こしました。「平忠常の乱」と呼ばれるこの争乱は、簡単にいえば、身内同士の縄張り争いが大きくなったようなものです。平将門の乱から約九十年後の出来事でしたが、この間ずっと関東では平氏同士の紛争が絶えませんでした。朝廷は、関東の治安維持のため、源氏の源頼信よりのぶに命じて忠常の乱を鎮圧させますが、これにより平氏は関東での勢力を失うこととなりました。
永承えいしょう六年(一〇五一)には、奥州の有力豪族である阿倍あべ氏が「前九年の役」と呼ばれる朝廷に対しる反乱を起こします(阿倍氏の出目に関しては諸説あり)。あしかけ十二年のも及ぶ激しい戦い(そのためかつては「奥州十二年合戦と呼ばれた)により阿倍氏は源氏の武士団によって滅ぼされました。
永保えいほう三年(一〇八三)には、阿倍氏滅亡の後、奥州を支配していた清原氏(出目は諸説あり)の内部紛争に端を発した「後三年の役」が起こります。これを鎮圧した源義家よしいえ(忠常の乱を鎮圧した頼信の孫)は、朝廷に恩賞を請いますが、朝廷は豪族間の私闘と見做して恩賞を与えませんでした。これを見兼ねた義家が私財をはたいて家臣たちに恩賞を与えると、関東の武士たちは義家に心酔します。これをきっかけとして、後の武士独特の忠誠心につながる強い結びつきができていきました。
戦を嫌う平安貴族
「刀伊の入寇」以後の一連の争乱に対する朝廷(天皇および貴族たち)の対応を見ていると、朝廷は治安を維持する警察機構や常備軍のようなものを持たず、戦は基本的に武士たちに任せきりだったことがわかります。雅を愛する平安貴族たちは「戦」を野蛮なものだとし、「 けが れ」として忌み嫌うようになっていたからです。
彼らは同じ理由で、自らが手を汚す「死刑」制度も廃止していました。現代の死刑廃止論の中には「平安時代は死刑がなく、人権意識が進んでいた時代」と言う人がいますが、これはまったくの誤解ないしは曲解です。たしかに日本は弘仁九年(八一八)嵯峨さが天皇が「死刑廃止」の宣旨せんじを出してから保元ほうげん元年(一一五六)までの三百年以上、制度としての死刑はあいませんでした。これは世界的に見ても稀有なことではありますが、しかし命や人権を重んじてなされたこととはいえません。貴族や太政官たちは自らが「死」にまつわることに直接関係する(死刑を宣告する)と、「身が穢れる」と考えたのです。くわえて死刑に処された者が怨霊となって祟ることを恐れたという事情もありました。
平安時代末期は、平和どころか治安は非常に悪く、都にも盗賊が横行し、殺人事件も多発していました。にもかかわらず朝廷は犯人を捕まえても死刑にせず、都から追放する処分しか下しませんでした。要するに、嫌なものは目に入らないようにしているだけだったのです。
一方、地方では、国司や検非違による死刑が普通に行なわれていました。武士の間ではむしろ厳しい処罰が当たり前でした。民衆による私刑もありました。従って「平安時代は私刑のない平和な時代」というのはまったくの誤りなのです。
前述したように、平安時代末期は都の警察機構がほとんど機能しないばかりか、経済も立ち行かず、都の通りに餓死者の死体が転がっていることも珍しくありませんでした。都の玄関口である羅城門らじょうもんでさえ荒れ果てており(『今昔物語』に、羅城門で餓死者の衣服を剥ぎ取る老婆の話が出てくる)、天皇が住む大極殿たいごくでんの一部にも鬼が出るとさえ言われていました(貴族たちが大極殿で肝試しをする話も残っている)。しかし朝廷は世の中の嫌な事件や現実には目を瞑り、ひたすら優雅な生活と文化を愛し、権力争いに明け暮れていたのです。
飛鳥時代の政府(朝廷)が、防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりして、常に外国からの侵略に備えていたものが、三百年も平和が続くと、完全な平和ボケに陥ったというわけです。国を守るという考えが希薄になり、同時に現実的な判断力をも失っていました。「刀伊の入寇」の際、祈禱に頼るしかないというのが、まさにその象徴的な行動だったのです。
2025/09/06
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