「刀伊の入寇」から九年後の万寿五年(一〇二八)、関東で平忠常ただつねが乱を起こしました。「平忠常の乱」と呼ばれるこの争乱は、簡単にいえば、身内同士の縄張り争いが大きくなったようなものです。平将門の乱から約九十年後の出来事でしたが、この間ずっと関東では平氏同士の紛争が絶えませんでした。朝廷は、関東の治安維持のため、源氏の源頼信よりのぶに命じて忠常の乱を鎮圧させますが、これにより平氏は関東での勢力を失うこととなりました。
永承えいしょう六年(一〇五一)には、奥州の有力豪族である阿倍あべ氏が「前九年の役」と呼ばれる朝廷に対しる反乱を起こします(阿倍氏の出目に関しては諸説あり)。あしかけ十二年のも及ぶ激しい戦い(そのためかつては「奥州十二年合戦と呼ばれた)により阿倍氏は源氏の武士団によって滅ぼされました。
永保えいほう三年(一〇八三)には、阿倍氏滅亡の後、奥州を支配していた清原氏(出目は諸説あり)の内部紛争に端を発した「後三年の役」が起こります。これを鎮圧した源義家よしいえ(忠常の乱を鎮圧した頼信の孫)は、朝廷に恩賞を請いますが、朝廷は豪族間の私闘と見做して恩賞を与えませんでした。これを見兼ねた義家が私財をはたいて家臣たちに恩賞を与えると、関東の武士たちは義家に心酔します。これをきっかけとして、後の武士独特の忠誠心につながる強い結びつきができていきました。 |
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