~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-10
ここで少し変わった話をします。現代では「性愛」は異性間だけのものではないという主張が認められつつありますが、古代はどうだったのでしょうか。
ヨーロッパでは男同士の性交(男色)はキリスト教徒が禁じていたこともあり、ローマ帝国以降は同性間の性愛はタブーとされてきましたが、古代ギリシャではそうではありませんでした。男性同士あるいは女性同士の性愛は珍しいものではなかったようです。ギリシャのレスボス島には女性を愛した女性詩人サッフォーがいたこと、同島がレズビアンの語源となっています。古代の中国でも男性同士の性愛はタブーではありませんでした。
日本でも同性愛の禁忌は強いものではなかったようです。仏教が入って以降、女人禁制の寺院などでは僧同士による関係は珍しくありませんでした(一説には僧侶の世界の男色は空海が唐から持ち帰ったと言われている)。やがてそれは僧以外の貴族社会にも浸透し、平安末期には、男同士の肉体関係はよくあったようです。
また女性のいない戦場では、武士たちが男色関係を結んだり、少年を随行させて女性の代わりとしたといわれています。それらの風習は後の鎌倉時代や室町時代を通じて続き、戦国時代になると、大名や武将たちは小姓(武将の身辺の雑用をこなす少年)を相手に性交するのは普通のことだったようです(しかし男色を好まなかった武将もいた)
こうした歴史を見ると、日本は「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクイシャル、トランスジェンダー)に関してはヨーロッパよりも進んでいたといえます。ただ、レズビアンに関して書かれた記録はほとんどなく、その実態は不明です。
院政の時代
平安時代の権力闘争は応徳おうとく三年(一〇八六)白河しらかわ天皇が上皇(太上天皇の略)になった頃から複雑なものになってきます。
律令制度では譲位した天皇は上皇となり天皇と同等の権威を有する存在とされてきましたが、平安時代後期から、天皇の父あるいは祖父である上皇は、天皇を上回る権威を持つ存在と見做されるようになっていました。三十三歳の白川天皇はそれを利用して、八歳の堀河ほりかわ天皇に譲位し、政治の実権を握るおゆになりました。これを院政といいます。白河上皇が院政を敷いたのは、藤原家の摂関政治の力を削ぐ目的もありました。こうして白河上皇以降、後の上皇も院政を敷くようになります。上皇の権威はさらに強くなり、実質的に政治の最高権力者となり、天皇は皇太子のような存在となっていきました。現代に、表むきは引退した経営者が実権を握って組織を運営している時に、「院政」という言葉が使われるのはこうした歴史からです。
院政を敷くことの出来る上皇を「治天」といいますが、治天となるには二つの条件がありました(「治天の君」という言葉が生まれたのは後の時代)。一つは「天皇位を経験していること」もう一つは「現天皇の直系尊属(父あるいは祖父)であること。
そして複数の上皇がいても、治天は必ず一人です(親子の上皇がいた場合、父が治天)。また治天にならなければ、自らの直系子孫へ皇位を継承出来ず、そのため白河上皇以降、朝廷内ではしばしば治天をめぐる争いが生じるようになりました。
「上皇側」と「天皇側」による権力闘争の最も大きなものが「保元の乱」です。もともとは皇室内の争に過ぎなかったこの事件ですが、皮肉なことに、これによって皇室は権力を失うことになります。その意味で、保元の乱は日本史を変えた事件だったといえます。
2025/09/07
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