~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
保元の乱
日本史を大きく変えた保元の乱は、 崇徳 すとく 上皇と 後白河 ごしらかわ 天皇(崇徳上皇の大甥・弟)の争いですが、この争いの背景には、雅とはおど遠いどろどろした人間ドラマがありました。崇徳上皇の出生にまつわる話が発端となっていたのです。
崇徳上皇は 鳥羽 とば 上皇の子供ということになっていますが、実の父親は鳥羽上皇の祖父の白河法皇だといわれています(上皇が出家すると法皇になる)。つまり白河法皇が孫の妻と不倫して生まれた子が崇徳天皇(後、上皇)だったのです。このことは正史には書かれていませんが、様々な状況証拠から、おそらく事実と思われまます。
鳥羽上皇は息子の崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいました(形式上は我が子だが、実際は祖父の子」であり、自分にとっては叔父に当たるから)
保安 ほうあん 四年(一一二三)、白河法皇は鳥羽天皇を無理矢理に皇位から降ろし、四歳の崇徳天皇を皇位に就けました。鳥羽天皇の悔しい思いは如何ばかりだったでしょうか。崇徳天皇は表向き自分の息子ですが、実の父親は祖父の白河法皇なのですから。
白河法皇が亡くなった後、鳥羽上皇の復讐が始まります。寵愛する藤原 得子 とくし ( 美福門院 びふくもんいん )が男子( 体仁 なりひと 親王)を産むと、崇徳天皇を皇位から降ろし、わずか二歳の体仁親王を天皇( 近衛 このえ 天皇)にし、自らは法皇となります。前述したように、上皇が院政を敷くための治天となるには、現天皇の父や祖父でなければなりません。つまり近衛天皇は崇徳上皇の弟なので、鳥羽法皇が亡くなった後も、崇徳上皇は治天になれず、院政を敷くことが出来ないというわけです。鳥羽法皇はそこまで先を読んでいました。
しかし近衛天皇は十六歳で亡くなります。崇徳上皇は自分の息子を天皇にしてくれることを期待します。そうなれば崇徳上皇は治天として院政を敷くことが出来るからです。ところが、鳥羽法皇は今度は崇徳上皇の弟である後白河を天皇にします。後白河と崇徳上皇は同じ母から生まれた兄弟ですが、前述したように崇徳上皇の実の父は白河法皇、後白河天皇の父は鳥羽法皇です。つまり鳥羽法皇は実の息子を天皇にして、崇徳上皇が治天になることを防ぎ、その血を受け継ぐ者を権力から排除したのです。
鳥羽法皇の執念も凄まじいですが、こんな仕打ちを受けた崇徳上皇の心中が穏やかであったはずはありません。
この頃、崇徳上皇はこんな歌を詠んでいます。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞおもふ」
百人一首にも収められているこの歌の意味は、二つに分かれた急流が、いつかは一つになって出合うこともあろうかというもので、一般的には恋人との再会を願う歌と解されています。しかし実のところは、やがては皇統が一つになってほしいという願いが込められたものだったのでしょう。
ここまでが保元の乱の伏線ですが、実際の乱に発展したのは、兄弟で実権を争っていた藤原 忠通 ただみち (兄) 頼長 よりなが (弟)が絡んでいたことも関係します。左大臣の頼長は崇徳上皇につき、関白の忠通は鳥羽法皇についていました。
保元元年(一一五六)、鳥羽法皇が崩御した時、法皇の屋敷に赴いた崇徳上皇は門前払いの扱いを受けます。さらに後白河天皇方は、武士の源 義朝 よしとも や平清盛を味方につけて崇徳方を挑発します。ここに至り、崇徳上皇の積年の恨みが爆発しました。そんな崇徳上皇に藤原頼長が武力によって権力を奪取することを勧めます。蜂起を決意した崇徳上皇と藤原頼長は武士の源 為義 ためよし 為朝 ためとも (父子)、平 忠正 ただまさ などを味方につけました。
実は敵味方に分かれた源為義と源為朝とは親子であり、平忠正と平清盛は叔父と甥の関係でした。ちなみに崇徳上皇と後白河天皇は兄弟、藤原忠通と藤原頼長も兄弟、つまりこの争いはまさに兄弟や肉親による骨肉の争いでした。
崇徳上皇側についた源為朝は夜襲を進言しますが、藤原頼長に「かしこくも上皇と天皇の争いに卑怯な真似は出来ない」と一蹴されます。頼長は学はありましたが、戦いというものの本質を知りませんでした。その夜、逆に後白河天皇側が夜襲をかけ、崇徳上皇側は一夜にして壊滅しました。そして藤原頼長は逃げる途中に自害し、崇徳上皇は讃岐さぬき に流されます。
捕らえられた源為義と平忠正は後白河天皇の命令によって処刑されました。弘仁九年(八一八)より続いていた「死刑廃止時代」はこの時に終わります。
讃岐に流された崇徳上皇は反省を込めて仏教の経典を書き写して都に送りますが、朝廷はこれを受け取らずに送り返しました。怒りに震えた崇徳上皇は自ら下を噛み、その血で経典に「われ日本国の大魔縁となり、おうを取って民とし民を皇となさん」と書きました。怨霊となって、皇室をつぶすと宣言したのです。以降、崇徳上皇は髪も爪も伸ばし放題になり、異形のまま、その地で崩御しました。白河上皇による不倫によって生まれた悲劇の天皇でした。
保元の乱の歴史的意味は、それまで脇役でしかなかった武士団が内乱に決着をつけたということです。この戦いにより平氏と源氏の力は一挙に膨れ上がり、まもなく起こる「平時の乱」によって、武士の力がさらに大きくなり、貴族は力を失っていきます。その意味で保元の乱こそ、日本史の大きなターニングポイントの一つといえるのですが、そのもrととなったのが不倫だったというのが歴史の面白いところです。
白河法皇の不倫話は歴史学者の間では公式には事実と見做されていません。理由はその話が公文書の記録にはなく、鎌倉時代に編まれた『古事談こじだん』にしか書かれてないからです。しかし江戸時代の水戸学の学者たちは真実と考えていましたし、東京大学の名誉教授であり、東京大学史料編纂所所長であった竹内理三たけうちりぞう氏もしの著作『日本の歴史』第六感(中央公論社)に中で「おそらく事実であろう」と述べていますし、大阪私立大学教授で歴史学者の角田文衛つのだぶんえい氏も『待賢門院彰子たいけんもんいんしょうしの生涯』でこの説を採っています。また『古事談』は貴重な資料です。実際、崇徳天皇から数代の天皇の即位の順番を素直に見ると、そこには明らかに不自然なものが感じられるはずです。歴史を公式史料でしか判断できない者と。想像力を働かせる者の違いはそこにあります。
2025/09/09
Next