~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-11
崇徳天皇(上皇)は日本史上最大の怨霊とされています。死後に都で様々な異変や凶事が相次いで起こったからですが、最も大きな わざわい は「皇を取って民となし民を皇となさん」という崇徳天皇の宣言が実現したことです。
実際、崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や貴族に取って代わって政治の実権を握ることとなりました。まさに「民」が「皇」となったのです。
この現実を目の当たりにすると、当時の皇室がどれほど崇徳上皇の怨霊を恐れたかが想像に難くありません。
さらに「祟り」はそれ以降も続きます。平氏が倒れた後も朝廷に実権は戻らず、政権は源氏から鎌倉幕府、さらに室町幕府へと移っていきます。崇徳上皇が日本最大の怨霊といわれるのはそのためです。その祟りを恐れた皇室は後に、その怨霊を祀るために百年ごとに式年祭を執り行うようになります。
しかし天皇が政治の実権を回復するのには、明治維新まで七百年も待たなければなりませんでした。明治元年(一八六八)、明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮(現在の白峯神社)を創建し、崇徳上皇の御霊を七百年ぶりに讃岐から京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかりました。その約百年後の昭和三九年(一九六四)には、昭和天皇が崇徳上皇が亡くなった香川県で行なわれた式年祭に勅使を遣わしています。二十世紀においても、「怨霊を鎮める」ことを大事とする考えが皇室の中で受け継がれているのです。
平治の乱
「保元の乱」で勝利した後白河天皇は貴族たちの荘園にも手をつけていきます。
以前から有力貴族や寺社は私有地である荘園をどんどん増やし、国の税収は減っていきました。そこで後白河天皇は、「荘園整理令」を出します。これはわかりやすく言えば荘園の私有権の制限です。この改革(保元新政)を立案して推進したのは側近の藤原 道憲 みちのり (法名・信西)です。信西は私有地の地主の反発や抵抗を抑えるため、あるいは都の治安を維持するために、大きな兵力を持つ平清盛の力を借ります。これにより信西と平氏はともに勢力を拡大していきます。
実力者の美福門院(鳥羽法皇の皇后)は、信西に働きかけて、後白河天皇を退位させ、自分が育てた 二条 にじょう 天皇に譲位させます。それを見ると、信西の力は相当なものでったとものであったとうかがえます。不満を抱いた後白河上皇は、今度は武蔵守である藤原信頼を抜擢します。上皇の後ろ盾を得て異例の出世を遂げた信頼は信西と対立し、源氏の棟梁であった源義朝と結びつきます。権力を握るには武力が必要と考えたのかも知れません。
そして平治元年(一一五九)、信頼は源義朝の力を借りて、クーデターを起こしました。源義朝は御所を占拠して、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西を自害に追い込みます。源義朝は保元の乱では平清盛と手を結んで後白河上皇を助けましたが、今回は上皇を捕らえる側となったのです。信頼と源義朝の謀叛を知った平清盛は、二条天皇を救い出すと、天皇を奉じて兵を挙げ信頼と義朝を攻め、二人を死に追いやりました。これが「平治の乱」です。簡単に書きましたが、実は「平治の乱」はその背景や人間関係は複雑多岐にわたり、また諸説もあって、それらすべてを記すには、それだけで数ページを要します。
重要なことは、この事件によって、武士の力が一気に増したことです。その意味では「平治の乱」は歴史の転換点といえるかも知れません。
ところで、平清盛は源義朝を死に追いやりましたが、その子供たちの命は取りませんでした。軍紀『平治物語』によると、清盛は当初、当時十三歳だった頼朝よりともを殺そうとしますが、清盛の継母が愛らしい頼朝を見て、亡くした息子を思い出し、清盛に助命嘆願すます。清盛は仕方なくそれを受け入れ、頼朝を伊豆に流しました。清盛は頼朝の異母弟である義経よしつね(当時一歳)をも殺そうとしますが、その母を自分の妾にすることで、義経の命を助け、鞍馬寺くらまでら に預けました。この話はフィクションではないかといわれていますが、細部はともかく清盛が頼朝と義経を殺さなかったことは事実です。つまり清盛の温情のようなものがあったのはたしかでしょう。私はそこに日本的なものを感じます。これは中国やヨーロッパならまずあり得ないことです。将来、禍の種になりかねない敵の一族の息子などは粛清しておくのが覇道の常識だからです。
後に平氏は源頼朝の命を受けた義経に滅ぼされることになりますが、もし清盛が継母の言葉に耳を貸さず、また義経の母の情にほだされなければ、歴史が変わっていた可能性は大です。中国の歴代皇帝などと比べると清盛は実に甘い権力者に見えます。
2025/09/10
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