崇徳天皇(上皇)は日本史上最大の怨霊とされています。死後に都で様々な異変や凶事が相次いで起こったからですが、最も大きな
禍
は「皇を取って民となし民を皇となさん」という崇徳天皇の宣言が実現したことです。
実際、崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や貴族に取って代わって政治の実権を握ることとなりました。まさに「民」が「皇」となったのです。
この現実を目の当たりにすると、当時の皇室がどれほど崇徳上皇の怨霊を恐れたかが想像に難くありません。
さらに「祟り」はそれ以降も続きます。平氏が倒れた後も朝廷に実権は戻らず、政権は源氏から鎌倉幕府、さらに室町幕府へと移っていきます。崇徳上皇が日本最大の怨霊といわれるのはそのためです。その祟りを恐れた皇室は後に、その怨霊を祀るために百年ごとに式年祭を執り行うようになります。
しかし天皇が政治の実権を回復するのには、明治維新まで七百年も待たなければなりませんでした。明治元年(一八六八)、明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮(現在の白峯神社)を創建し、崇徳上皇の御霊を七百年ぶりに讃岐から京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかりました。その約百年後の昭和三九年(一九六四)には、昭和天皇が崇徳上皇が亡くなった香川県で行なわれた式年祭に勅使を遣わしています。二十世紀においても、「怨霊を鎮める」ことを大事とする考えが皇室の中で受け継がれているのです。 |
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