~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
平氏の栄光
平治の乱で活躍した平清盛はその後、後白河上皇の信任を得て、一気に出世街道をひた走ります。そしてついに最高位の太政大臣に就きます。「保元の乱」と「平治の乱」で、武士の力(武力)がいかに強いかを、朝廷や貴族も思い知ったのでしょう。
藤原氏をはじめとする貴族しかなれなかった太政大臣に武士の清盛が就いたのは異例中の異例でしたが、これは清盛が、自分は白河法皇が祇園女御ぎおんのにょうごに産ませた子という噂を広めていたためでもありました(近年、これは事実の可能性が高いとする説が多くなっているが、定説とまではなっていない)
そしてついに自分の娘(徳子)を高倉天皇の皇后にすることに成功します。高倉天皇は七歳で皇位に就き、徳子と結婚したのは十歳(徳子は十七歳)、完全な政略結婚です。徳子は六年後、皇子を産み、清盛は未来の天皇の祖父(外戚)となります。ここまではかつての藤原氏と同じですが、武家の清盛は道長とは違いました。
治承じしょう三年(一一七九)、清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛し、対立していた後白河法皇を幽閉して、政治の世界から退かせたのです。これを「治承三年の政変」といいます。ここに長らく続いた院政時代は実質的に終わりを告げました。
翌年、清盛は十九歳の高倉天皇を退位させ、自分の孫の安徳あんとく天皇(当時二歳)に譲位させます。幼い安徳天皇が政治を行なえるはずもなく、表向きは高倉上皇の院政ということでしたが、すべての権力は清盛が握っていました。清盛は政治権力を握るだけでなく、大和田泊おおわだのとまり(現在の神戸港)を修築し、そうと貿易を行なって巨万の富を築きました。この時、宋の銅銭が大量に流入しました。
平氏の一族はことごとく高位高官に就き、知行国二十五ヶ国、国守二十九ヶ国、所有する荘園は全国五百ヵ所に及ぶ勢力を誇ることになります。まさに権力と財力のすべてを掌握したのですが、」この状況を表した有名な言葉が、「平氏にあらざれば人にあらず」(原文は「この一門にあらざらむ人は皆、人非人にんぴにんなるべし」)というものです。これは平氏の一人である平時忠ときただの言葉です。当時の「人非人」は侮蔑語ではなく、「宮中で出世しない人」という意味でした。
平氏の没落
日本史上、武家として初めて権力を握った平氏でしたが、その政治手法は多少の独自のスタイルはあったものの、後の鎌倉幕府のような武家を中心とした新しいものではありませんでした。私の目には、それまでの貴族たちのやり方を踏襲したものに映りますが、別の見方をすれば、貴族政権から武家政権の過渡的なものといえるかも知れません。
しかし権力を独占する平氏にやがて全国の武士たちが反発します。筆頭となったのは平氏の最大のライバル集団である源氏でした。治承四年(一一八〇)源氏の嫡男とされる源頼朝が挙兵したことで、ついに源氏と平氏の戦いが起こりました。
翌年、清盛の死後、頼朝の従兄弟にあたる源(木曽きそ)義仲よしなか寿永じゅえい二年(一一八三)に平氏は安徳天皇を奉じて京都から西へ逃げました。京都に入った義仲は次の天皇をめぐって後白河法皇と対立、また義仲の部下たちも洛中で乱暴狼藉ろうぜきを働き、そのため後白河方法は頼朝に義仲追討を命じます。頼朝は東国の支配を認めてもらうことを条件に、異母弟の範頼のりよりを大将にした軍を都へ差し向け、義仲を討たせました。
次に後白河法皇は頼朝に平氏追討を命じます。範頼とともに平氏を追った義経(範頼の異母弟)は、一ノ谷の戦いや屋島の戦いで、平氏に圧勝し文治ぶんじ元年(一一八五)壇ノ浦の戦いでついに平氏を滅亡させました。七歳の安徳天皇もこの戦いで海に没して崩御しています。
この壇ノ浦の戦いの後、平氏の栄光と没落を描いた『平家物語』が生まれました。
同書はきわめて優れた軍記物語であると同時に、日本的な無情観と生死観表された一級の文学作品です。その冒頭を次に記します。
「祇園精舎しょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
夜の無常と儚さをリズミカルに表現した、まさに名文です。
余談ですが、源平合戦の両氏の旗印は源氏が白地に赤丸、平氏が赤地に金丸でした。これが後に、対抗する二組の競争などに使われる「紅白」の由来となったという説が有力です。なお、源氏の「白地赤丸」は日本国旗「日の丸」のルーツといわれています。
2025/09/12
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