日本史上、武家として初めて権力を握った平氏でしたが、その政治手法は多少の独自のスタイルはあったものの、後の鎌倉幕府のような武家を中心とした新しいものではありませんでした。私の目には、それまでの貴族たちのやり方を踏襲したものに映りますが、別の見方をすれば、貴族政権から武家政権の過渡的なものといえるかも知れません。
しかし権力を独占する平氏にやがて全国の武士たちが反発します。筆頭となったのは平氏の最大のライバル集団である源氏でした。治承四年(一一八〇)源氏の嫡男とされる源頼朝が挙兵したことで、ついに源氏と平氏の戦いが起こりました。
翌年、清盛の死後、頼朝の従兄弟にあたる源(木曽)義仲よしなか寿永じゅえい二年(一一八三)に平氏は安徳天皇を奉じて京都から西へ逃げました。京都に入った義仲は次の天皇をめぐって後白河法皇と対立、また義仲の部下たちも洛中で乱暴狼藉ろうぜきを働き、そのため後白河方法は頼朝に義仲追討を命じます。頼朝は東国の支配を認めてもらうことを条件に、異母弟の範頼のりよりを大将にした軍を都へ差し向け、義仲を討たせました。
次に後白河法皇は頼朝に平氏追討を命じます。範頼とともに平氏を追った義経(範頼の異母弟)は、一ノ谷の戦いや屋島の戦いで、平氏に圧勝し文治ぶんじ元年(一一八五)壇ノ浦の戦いでついに平氏を滅亡させました。七歳の安徳天皇もこの戦いで海に没して崩御しています。
この壇ノ浦の戦いの後、平氏の栄光と没落を描いた『平家物語』が生まれました。
同書はきわめて優れた軍記物語であると同時に、日本的な無情観と生死観表された一級の文学作品です。その冒頭を次に記します。 |
「祇園精舎しょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。驕おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」 |
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夜の無常と儚さをリズミカルに表現した、まさに名文です。
余談ですが、源平合戦の両氏の旗印は源氏が白地に赤丸、平氏が赤地に金丸でした。これが後に、対抗する二組の競争などに使われる「紅白」の由来となったという説が有力です。なお、源氏の「白地赤丸」は日本国旗「日の丸」のルーツといわれています。 |
2025/09/12 |
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