~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
鎌倉政権
平氏滅亡の最大の功労者は源義経でしたが、義経の異母兄で源氏の棟梁とされる頼朝はこれを快く思いませんでした。頼朝が何よりも怒ったのは、義経が頼朝の許可を得ずに後白河法皇から官位を得たことでした。それまでの貴族に仕える武士ではなく、独立した武家政権の確立を目指していた頼朝にとって、朝廷の権威に靡く義経の態度は許し難いものでした。くわえて、法皇の信頼と武士たちの信望を得た義経の謀叛を恐れ、討伐を決意します。
それを知った義経は、後白河法皇から頼朝追討の許しを得ます。しかし、義経に従う者は少なく、後に後白河法皇は義経討伐の院宣を出します。
義経は頼朝の命を受けた軍勢に追われ、東北へ逃げ、奥州藤原氏に匿われます。奥州藤原氏は東北地方一帯を支配していた大豪族でした。本拠地の 平泉 ひらいずみ (現在の岩手県 西磐井 にしいわい 郡平泉町)は当時は大都市で、奥州は朝廷の支配が及ばない半ば独立国のような存在でした。
当主の 秀衡 ひでひら は、義経を引渡せという頼朝の命令を拒絶します。秀衡はこのままでは奥州は鎌倉に呑み込まれると見て、義経を将軍に立てて鎌倉と一戦交えようと考えたのです。しかしその矢先に秀衡は病死します。秀衡の跡を継いだ息子の 泰衡 やすひら は一転、父の遺言に背いて頼朝の追討要請に従い義経を殺害したのですが、ここで頼朝は、それまで義経を匿って来た罪は叛逆以上のものであるとして、奥州藤原氏を攻めて滅亡させます、これをもって鎌倉の源氏が東北全域を支配することとなります。
こうして頼朝は障碍しょうがいとなるものを排除し、鎌倉幕府の初代の征夷大将軍となります。ちなみに「幕府」というのは、「将軍の任命を受けた者が、都(首都)以外の土地で朝廷のために行政を行なうために設けた役所」という意味です。ですからあくまでも「幕府」は朝廷の代わりに政務を行う機関であって、形式的には朝廷の下部組織です。「鎌倉幕府」も最初は形式上、関東を中心とした東国地方を治める機関に過ぎなかったのです。
「鎌倉幕府」を支えたのは主従関係を結んだ御家人と呼ばれる武士たちです。頼朝の死後、息子の頼家よりいえが二代目の将軍となりますが、頼家の弟の実朝さねともを推す有力御家人の北条時政ほうじょうときまさが強引に頼家を退隠させて、十一歳の実朝を三代目の将軍に就けます(頼家は退隠の翌年に暗殺される)。ちなみに時政の娘は頼朝の妻、政子まさこ です。
北条時政は幼い実朝を補佐する名目で鎌倉幕府の初代執権の座に就きました。執権とは将軍の代わり政務を行なう役職です。
三代目将軍となった実朝は十六年後、頼家の息子の公暁くぎょうに殺されます。直後、公暁は執権の北条氏によって討ち取られ、頼朝の死後わずか二十年で頼朝の血筋は絶えることとなりました。
源氏に代わってその後は、北条家が鎌倉幕府の実権を握ることになります。
北条家は鎌倉幕府を維持するために、京都から頼朝の遠縁にあたる一歳の藤原頼経よりつねを迎えて四代目の将軍としました(将軍就任は八歳のとき)。完全な傀儡将軍です。
その後、北条家は将軍が成人すると適当なタイミングで退隠させて京都に送り返し、新たな幼い将軍を立てていきます。北条氏から将軍を出さなかったのは、家格の低い北条氏が将軍となれば、有力御家人の反発は必至で、これを恐れたためと思われます。
承久の乱
かねて源氏の東国支配を快く思っていなかった後鳥羽ごとば上皇は、頼朝の血筋が絶えたことで、鎌倉幕府が崩壊すると見て、承久じょうきゅう三年(一二二一)、執権であった北条義時よしとき追討の院宣を発します。これに呼応して、鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵などが挙兵しました。
鎌倉幕府は朝廷側の命令に動揺しましたが、義時の姉であり頼朝の妻であった北条政子が御家人たちを集め、頼朝がいかに御家人たちのために恩を施してきたかを熱く説きました。これは史上に名高い演説で去り、政子の名を「尼将軍」として後世にまで残すエピソードとなりました。政子の訴えに奮い立った御家人たちは、上皇側と戦う決意をします。そして鎌倉で上皇の軍勢を迎え撃とうという当初の計画を取りやめて、京都へ攻め上がりました。
鎌倉を出立した時はわずか十数騎の兵力だったものが、道中に続々と御家人たちが結集し、最終的には十九万の軍勢のなったといいます。これに対して後鳥羽上皇に味方する武士たちは予想よりも少なく、戦いは鎌倉側の圧勝に終わりました。しかし幕府の怒りは収まらず、後鳥羽上皇、土御門つちみかど上皇、順徳じゅんとく天皇を、それぞれ隠岐おき、土佐、佐渡に流します(土御門は自ら土佐へ還幸)。挙兵に加わった上皇の貴族や武士たちを処刑し、その所領(土地)を大量に没収しました。
これ以降、鎌倉幕府は朝廷をはるかに上回る強大な権力を持ち、実質的に全国を支配することになりました。皮肉なことに朝廷が権力を奪取しようとしたのがかえって幕府の力を強めてしまったというあけです。私は、ほぼ完全な試験交代が行なわれたこの時をもって、鎌倉幕府の時代に入ったと考えます。その意味では「承久の乱」は日本史にとって、は大きな事件であるといえます。
鎌倉幕府は日本に初めて現れた武士による本格的な政権でした。当時、武士には大きく分けて御家人と非御家人の二つがあり、御家人は鎌倉幕府と主従関係を結んでいる武士、非御家人は公家や寺社の荘園などにいて幕府と主従関係を結んでいない武士でした。非御家人は幕府の庇護を受けず、また幕府に対する義務も負わない存在でした。
執権政治が確立されたのは三代目の執権、北条泰時やすときの時代です。貞永じょうえい元年(一二三二)、武家社会における規則や道徳やしきたりなどを定めた「御成敗式目ごせいばいしきもく」が制定されました。時代はそれまでの貴族社会から、武家社会へと大きく変化していきます。
2025/09/14
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