~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
「一所懸命」と「いざ鎌倉」
鎌倉幕府は全国に守護と地頭を設置しました。守護は国(地方)の警察権や司法権を持つ役職で、地頭は各地の荘園などを管理する役職です。そもそもは源頼朝が源義経を討つために全国に設置したのが最初ですが、義経征討は口実に過ぎず、鎌倉政権による全国支配の布石が真の目的であったといわれています。そのため近年では、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(一一八五)を鎌倉政権誕生の年と見る学者が多くなっています。
守護も地頭も鎌倉政権に忠誠を誓った御家人です。ただ地頭の中には、鎌倉幕府の威光を背景として無理難題を吹っ掛けて荘園の権利を浸食したり、あるいは武力をもって強引に土地を奪ってしまったりする者が現れました。そのやり方はかなり横暴なもので、現代でも「泣くこと地頭には勝てぬ」という諺として残っているほどです。
こうして平安時代から続いていた荘園制度は急速に崩壊していきます。
ところで、多くの御家人はその土地を大切に守りつつ、鎌倉幕府に忠誠を誓う存在でした(非御家人は武士とはいえ一般庶民と同じ扱いであった)
現在では「一生懸命」と書かれることもありますが、もともとは「一所懸命」でした。自分の土地はしっかいと耕し、命を賭けても守り抜くものということが語源となった表現です。御家人たちはその「土地の名前を苗字として名乗ることも珍しくありませんでした。後の「建武中興」で活躍する足利尊氏や新田義貞の苗字も地名から取ったものです。ちなみに彼らの正式な姓は源です(源氏の一族)
御家人たちは日常的に戦いの訓練を怠らず、もし幕府に危険が迫れば、鎌倉に馳せ参じる覚悟がありました。この備えの精神は今も「いざ鎌倉」という言葉として残っています。
商業の発達
鎌倉時代の社会の特筆すべきことのひとつに、貨幣経済の発展があります。私は貨幣経済の発達は非常に大きな社会変化と考えています。なぜなら貨幣が流通しない時代は、物品のやりとりは物々交換するしかないからです。米や布が貨幣代わりに用いられていたとはいえ、便利さにおいて貨幣とは比較になりません。様々な物品が貨幣によって売買されるようになると、商業が飛躍的に発達し、織物、鋳物、焼き物などの手工業品も多く作られるようになり、職人も増えました。
変化はそれだけではありません。農業の分野では、治水や開墾技術が進んだことで、農地が増えました。田に水を引く水車が作られ、用水池も掘られます。牛馬を使って田畑を耕すようになり、肥料もそれまでの草木灰に加えて、刈敷や厩肥が用いられるようになりました。西日本を中心に二毛作も行われえるようになります(二毛作とは春には米、冬には麦を植えること)。漁業も発達し、塩田も多く作られるようにまります。各地の鉱山の開発も進みました。
このように鎌倉時代になって社会は大きく変わりましたが、この変化は政治体制が変わったことによるものなのか、それとも社会変化によって政治体制が変わったのでしょうか。私は両方が相互に影響を及ぼし合ったと考えています。
2025/09/14
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