鎌倉幕府は全国に守護と地頭を設置しました。守護は国(地方)の警察権や司法権を持つ役職で、地頭は各地の荘園などを管理する役職です。そもそもは源頼朝が源義経を討つために全国に設置したのが最初ですが、義経征討は口実に過ぎず、鎌倉政権による全国支配の布石が真の目的であったといわれています。そのため近年では、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(一一八五)を鎌倉政権誕生の年と見る学者が多くなっています。
守護も地頭も鎌倉政権に忠誠を誓った御家人です。ただ地頭の中には、鎌倉幕府の威光を背景として無理難題を吹っ掛けて荘園の権利を浸食したり、あるいは武力をもって強引に土地を奪ってしまったりする者が現れました。そのやり方はかなり横暴なもので、現代でも「泣くこと地頭には勝てぬ」という諺として残っているほどです。
こうして平安時代から続いていた荘園制度は急速に崩壊していきます。
ところで、多くの御家人はその土地を大切に守りつつ、鎌倉幕府に忠誠を誓う存在でした(非御家人は武士とはいえ一般庶民と同じ扱いであった)。
現在では「一生懸命」と書かれることもありますが、もともとは「一所懸命」でした。自分の土地はしっかいと耕し、命を賭けても守り抜くものということが語源となった表現です。御家人たちはその「土地の名前を苗字として名乗ることも珍しくありませんでした。後の「建武中興」で活躍する足利尊氏や新田義貞の苗字も地名から取ったものです。ちなみに彼らの正式な姓は源です(源氏の一族)。
御家人たちは日常的に戦いの訓練を怠らず、もし幕府に危険が迫れば、鎌倉に馳せ参じる覚悟がありました。この備えの精神は今も「いざ鎌倉」という言葉として残っています。
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