~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
文永の役
日本が貴族社会から武家社会へ劇的な変化を遂げている頃、世界でも大きな変化が起きていました。モンゴル人による世界征服です。
十二世紀の終わり、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル人が、近隣の諸民族を次々に吸収していきました。モンゴル高原にいた遊牧民の一部族が、突如として巨大な力を持ったのです。
その戦闘能力は圧倒的で、モンゴル人の攻撃を受けた国や民族はことごとく滅ぼされ、また服従を強いられました。モンゴル人は金や西夏せいかといった遊牧民族の国を滅ぼすと、高麗こうらい、インド、ロシア、アフガニスタン、ペルシャの地を手中に収め、ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築きます。ポーランドの平原ではドイツ・ポーランド連合軍を完膚なきまでに撃破して、一時ウィーンのすぐそばまで侵攻し、ヨーロッパの国々をパニックに陥れました。この時、モンゴル帝国の二代皇帝オゴデイの死去により侵攻が止りましたが、仮にモンゴル軍がそのままヨーロッパに攻め入っていたなら、西洋史も世界史も大きく変わっていたことでしょう(モンゴル軍はヨーロッパへ本格的に攻め込まなかった)。モンゴル帝国の版図はんとは歴史上最大で、実に、当時のユーラシア大陸人口の半数以上を統治するものでした(実質的に世界の人口のほぼ半分)
この大帝国は後にいくつかに分かれますが、中国大陸を支配したげん帝国の初代皇帝フビライ・ハーン(チイギス・ハーンの孫)は、日本をも服属させようと考えました。
文永ぶんえい五年(一二六八)、高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきたので。その国書でフビライは「大蒙古もうこ国皇帝」と自称しています。
執権だった北条政村まさむらは、この国難に際し、鎌倉武士団の団結を高めるため、北条得宗家とくそうけ(本家嫡流)時宗ときむねに執権の座を譲り、自らは補佐役に回りました。実は北条家には得宗家と分家があり、執権の座を巡る争いもありましたが、分家の政村は、ここで鎌倉武士団が一つになるためには、自らが引いて得宗家の執権を立てるべきと考えたようです。驚くべきことには、この時、時宗は満十六歳でした。
当時、外交の権限を持っていた朝廷は、蒙古からの国書に返書をしたためました。
この書面の文章は残っており、それを読むと、朝廷は強大な軍事国家に対していささかも卑屈になることなく、蒙古の要求を退けています。しかし北条時宗は、朝廷に対して、その返書を送ることを禁じました。
武家の棟梁である時宗は無礼な手紙に対して返書をする礼を取る必要はないと考えていたのでしょう。蒙古はその後、何度も使節を寄越しましたが、時宗は返書を出そうとする朝廷を抑えて、黙殺する態度を貫きました。このこを国際情勢と外交に無知だったせいだと批判めいた解釈をする歴史学者もいますが、その見方は現代の国際感覚を当てはめただけのように思います。当時は武力こそがすべてという時代であり、侵略の意図を持つ大国に、理を説いて侵攻を思いとどまらせることなどできたはずもありません。時宗が返書を出すことを禁じたのは迎撃の時間稼ぎだったという説もありますが、その考えもあったかも知れません。いずれにせよ、すでに戦いを始めていたといえるでしょう。
蒙古がいかに強大な帝国であるかという情報を、鎌倉幕府が知らなかったとは思えません(当時、民間人による南宋との交易があり、当然、蒙古の情報は入っていたと考えられる)。時宗は、日本を守るためには、大帝国との一戦もやむを得ないと考えました。そこで九州の御家人たちに防御態勢を取れと命じ、蒙古軍の襲来に備えます。
最初の国書が送られて来てから六年後の文永一一年(一二七四)十月五日(新暦では十一月十一日)、フビライはついに日本に軍隊を送り込んで来ました。蒙古は文永八年(一二七一)に国号を「元」と改めていましたが、当時の日本人はそのことを知らず、「蒙古」と呼んでいたので本書では蒙古と書きます。蒙古軍は七百~九百艘の軍船に、水夫を含む四万人の兵士を乗せて襲って来ました。内訳は蒙古人二万人と、蒙古に征服されていた高麗人一万人でした(他に一万の水夫がいた)
蒙古・高麗軍はまず対馬を襲い、多くの島民を虐殺しました。次に壱岐を襲い、同じく多くの島民を虐殺します。この時、蒙古軍は捕虜とした島の女性たちの掌に穴を空け、そこに縄を通して船べりに吊り下げました。おそらく迎撃する日本の兵を恐れさせるためであったと考えられます。
蒙古軍は二つの島を侵した後、博多に上陸しました。
未曽有の困難に際し、九州の御家人らは命を懸けて立ち向かいます。蒙古・高麗軍の独特の集団戦法と、毒矢や「てつはう」(火薬を使った爆弾のようなもの)に苦しめられながらも、御家人らは懸命に戦い、敵軍にかなりの損害を与えました。両軍の戦闘の優劣については、日本側、蒙古側、高麗側の様々な資料で記述が異なっているため、実態はよくわかりません。
十月二十日(新暦十一月二十六日)の夜、蒙古・高麗軍の軍船は一斉に引き上げました。彼らの目的は威力偵察であったという説もありますが、わずか二週間で引き上げた理由は、日本軍による攻撃で予想を超える大きな損害を蒙ったためとも考えられています。九州の御家人たちの決死の戦いが、当時世界最強だった蒙古軍を撤退させたのです。
蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたのはわずか一万七千人ほどだったと伝えられています。難破した蒙古・高麗軍の船百艘ほどが九州に漂着したという記録もあります。
かつては蒙古軍に大きな被害を与えたのは台風とされていましたが、新暦の十一月の終わりは大型台風が来る季節ではなく、またその記録もなく、現代では「台風説」は否定されています。ただし十一月から十二月にかけての玄界灘は荒れるため、蒙古軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高いとは考えられます。
この戦いは「文永の役」と呼ばれています。
2025/09/16
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