~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
弘安の役
鎌倉幕府は蒙古を撃退しましたが、決して油断はしませんでした。次に蒙古がやって来る時は、前回以上の規模で来るに違いないと考えたからです。
時宗は先手を打って高麗を攻撃することを計画しました。実際に軍船や兵士を博多に結集させ、出兵準備を調えていましたが、これは中止になりました。並行して進めていた博多湾沿岸の防塁( 石築地 いしついじ )建設に多額の出費と人員を要したためと思われます。
「文永の役」があった翌 健治 けんじ 元年(一二七五)、フビライは日本を服属させるために再び使節団を送って来ましたが、時宗はその使者を斬首に処しました。使者(外交使節)を斬り捨てるのは国際感覚としておかしいという意見を述べる現代の学者がいますが、そのような評価は、歴史を現代の価値観で見てしまう典型的な過ちです。この使者たちは日本の地理や国情を調べる偵察員だと考え、国内へ迎え入れてはならないと判断したのでしょう。
フビライは日本侵攻を計画しますが、この時は南宋との戦いの最中であったため、一時計画を棚上げしました。そして翌健治二年(一二七六)、南宋を滅ぼした後、日本侵攻に本格的に着手します。三年後の 弘安 こうあん 二年(一二七九)、フビライはまたもや、日本に服属を要求する使節団を送って来ましたが、時宗はこの使節団も斬首の刑に処しました。
弘安四年(一二八一)、蒙古は再度、日本侵攻のための軍隊を送り込んで来ます。
今度は前回の威力偵察のようなものではなく、一気に日本全土の制圧を狙った大軍勢でした。
旧暦の五月、蒙古軍と高麗軍の兵士約四万人を乗せた九百艘の軍船が高麗を出航しました(東路軍) 江南 こうなん から約十万人の旧南宋軍の兵士や水夫を乗せた軍船三千五百艘が出航しました(江南軍)。合せて約四千四百艘という艦隊はそれまでの世界史上最大の規模のものでした。兵士・水夫は約十四万人と、「文永の役」の三倍以上にものぼりました。フビライが日本との戦いに総力を挙げたことがわかります。この時の軍船には農機具なども積まれており、そのまま日本を占領しようとの意図があったこともうかがえます。
幕府は御家人だけでなく、非御家人にも出動を命じます。ここに九州の武士団は一致団結して蒙古軍を迎え撃つことになりました。
五月二十一日(新暦六月十六日)、江南軍より先に到着した東路軍は対馬を襲った後、博多湾上陸を試みましたが、二〇キロにわたる防塁(高い所では三メートルにも及ぶ)と、九州の武士団の激しい抵抗にあい、上陸を断念します。
六月六日、東路軍が志賀島(現在の福岡県福岡市)を占拠し、ここを軍船の碇泊地とすると、その夜、日本軍は夜襲をかけて蒙古軍を脅かします。さらに八日と九日、日本軍は志賀島に総攻撃を開始し、蒙古軍を撃ち破りました。東路軍は志賀島を捨てて、壱岐に退去し、後から来る江南軍を待つことにしました。ところが合流期日である十五日になっても江南軍が到着しません。東路軍の兵士は連日の敗戦で疲弊し、疫病の蔓延し、三千人もの死者が出ました。
六月下旬、江南軍の一部が壱岐に到着して東路軍と合流しました。遅れて本隊が平戸島ひらどじまに到着し、ついに四千艘を超えるとてつもない船団が壱岐から平戸島一帯を覆いました。これを迎え撃つ日本の武士団は蒙古軍のわずか三分の一ほどの数しかいませんでした。
しかし勇敢な日本軍は六月二十九日、壱岐の東路軍に総攻撃をかけます。激戦が数日続き、大きな損害を出した東路軍は平戸島の江南軍と合流するため壱岐から撤退しました。
江南軍と合流した東路軍は大宰府攻撃に備えて鷹島たかしま(現在の長崎県)で停泊しますが、そこへ七月二十七日の夜、日本軍の軍船が戦いを仕掛けました。日本軍の戦術は、小舟から蒙古軍の船に乗り込み、白兵戦(接近戦)を挑むというものでした。
戦いは夜を徹して行なわれ、日本軍は夜明けに引き上げました。日本軍の再度の来襲に怯えた蒙古軍は、二十八日から二十九日にかけて海岸に土塁を築き、軍船同士を鎖で縛って砦のようにします。
翌七月三十日(新暦八月二十二日)の夜半、九州北部を台風が襲いました。このため蒙古軍の軍船の多くが沈没あるいは損壊します。『帳氏墓碑銘ちょうしぼひめい 』には、この時の台風によって荒れた波の高さは「山の如し」とありますから、超大型台風であったと考えられます。今でも鷹島沖の海底からは当時の蒙古・高麗軍の武具が大量に見つかっています。
軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、鷹島に十万人の兵卒を置き去りにして撤退しました。残された蒙古軍の兵は島の木を伐り、船を作って逃げようとしますが、そこに日本軍が襲いかかりました。武士団は蒙古人と高麗人を皆殺しにし、南宋人は捕虜にしました。一節には、鷹島から本国に逃げ帰る事が出来た蒙古軍兵士はわずかに三人だったといわれています。鷹島にはこの時の掃討戦の激しさを物語るような地味が数多く残っています(首除くびのき、首崎、血崎、血浦、とうもと、胴代、死浦、地獄谷じごくだに遠矢とやはらなど)
この戦いは「弘安の役」と呼ばれています。
歴史を振り返って、今、私がつくづく思うのは、蒙古軍が襲来した時、日本が鎌倉政権でよかったということです。もし兵士や源氏による政権奪取がなく、貴族の政権が続いていたなら、はたして蒙古軍を撃退することが出来たでしょうか。その意味では日本は幸運に恵まれていたといえます。そしてもう一つの幸運は日本が海で隔たれていたことです。大和政権以来、一度も他国の侵略を受けなかった最大の理由もそれだったといえるでしょう。
「文永の役」と「弘安の役:は、現代では「元寇」と呼ばれていますが、鎌倉時代には「蒙古襲来」あるいは「異国合戦」などといわれていました。「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀とくがわみつくにが編纂した『大日本史』で最初に使われたものです。
2025/09/17
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