~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭
蒙古と戦った鎌倉幕府の御家人は甚大な犠牲を払いました。当主や息子を失った者もいれば、戦の費用を捻出するために、土地や屋敷を売った者もいました。しかし蒙古軍との戦いは防衛戦であったため、日本側が得たもの(戦利品や領地)はなく、幕府は御家人に十分な恩賞(土地や金)を与えることが出来ませんでした。
さらに、蒙古来襲に備えて幕府は御家人に異国警固番役などを命じたため、御家人の暮らしぶりは一層悪化しました。また当時の武家の相続方法では、嫡男以外の兄弟にも土地が分け与えられたので、三代も経ると、それぞれの家の財産が縮小し、生活の貧窮を招くようになっていました。困窮した御家人は商人から金を借り、その利子と返済に苦しむようになっていました。
そこで幕府は御家人を救うために、永仁五年(一二九七)、史上初の「徳政令」を出しました。徳政令とは、簡単にいえば債務免除、借金の棒引きです。
鎌倉幕府の徳政令は、商人が借金のかたに手に入れた御家人の土地を元の持主に返させるという形のものでした。これによって御家人は失った土地が戻り、一時的には助かりましたが、以降、商人は「徳政令」を恐れて金を貸さなくなり、結果として御家人の窮乏が加速しました。
一方、中央では北条氏が権力を独占していたため、多くの武士の間に不満が蓄積していきました。こうした社会情勢から治安が乱れ、西日本の各地に経済力を持った新興武士が現れ、徒党を組んで、荘園領主の支配に反発するようになります。彼らは「悪党」と呼ばれました。現代でも使われる「悪党」の語源ですが、当時は「悪人」という意味ではありませんでした。「悪」という文字は、もともとは「力強さ」を表す意味もあり、「悪党」は既成の枠に収まらない「強い集団」という意味合いで使われていました。「悪党」はやがて朝廷や寺社とも手を結び、荘園領主や幕府と対立する存在となっていきます。
十四世紀に入ると「悪党」はさらに大きな勢力となり、幕府の権限も及ばない集団がいくつも存在するようになっていきます。
鎌倉の文化
鎌倉時代には文化の面でも革命的ともいえる変化が起こりました。優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へと変化し、多くの分野で傑作が生み出されたのです。
なかでも特筆すべき分野は文学でした。鎌倉時代の文学は、それまでの王朝ものに見られたきらびやかさが鳴りを潜め、近代文学のようなリアリズムと諧謔かいぎゃく精神に満ちた作品が多く生み出されます。『平家物語』『保元物語』『平治物語』(いずれも作者不祥)などの軍記物語はその典型です。これらは叙事詩的であり、同時に「現世の儚さ」のようなものを謳っています。説話集の『宇治拾遺しゅうい物語』は物語性に優れ、同時に深いがあります。この萌芽は平安時代末期の『今昔物語』に見られますが、より完成された形となって表れています。
随筆にも平安時代のような貴族趣味は見られず、皮肉とユーモアを効かせた作品が出現しました。その吉田兼好よしだけんこう(卜部兼好うらべかねよし)の『徒然草つれづれぐさ』は現代の辛口コラムとしても通用する内容であり、鴨長明かものちょうめいの『方丈記』は前述の軍記物語に通じる「世の無常」を綴った傑作です。もっとも京では勅撰歌集『新古今和歌集』も編まれているので平安の貴族文化が消えたというわけではありません
彫刻や絵画は、いずれも写実的で力強さに溢れており、ひと目で「鎌倉らしさ」を感じ取ることが出来ます。その代表作は、運慶うんけい快慶かいけいらが造立した『東大寺南大門金剛力士像』ですが、アシンメトリーな構図と迫力あるタッチ三世紀後のヨーロッパに現れたミケランジェロらの彫刻に勝るとも劣らない傑作だと思います。しかも、ヨーロッパの彫刻の多くが石像であるのに対し、鎌倉彫刻の傑作のほとんどが木像です。劣化や焼失の可能性が格段に高い木彫像が、幾度もの戦乱や天災をくぐり抜けて八百年後の今日に存在していること自体が、奇跡と言って過言ではありません。そのことについても、私は先人への畏敬の念と感謝を禁じ得ないのです。
絵画も世界でも、『平治物語絵巻』や『蒙古来襲絵詞えことば』には当時の武士の合戦の様子がリアルに描かれており、歴史的な資料としても一級品だといえるでしょう。
2025/09/18
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