平安時代末期から鎌倉時代にかけては、戦乱と飢饉がたびたび起きました。そのためか、末法思想が流行し、同時に、庶民の間に来世の往生を求める風潮が強まっていきました。末法とは、釈迦の死後、時が経って「末法」に入ると、仏教の教えが衰滅し。ひどい世の中になるという考えです。こうした背景から、鎌倉時代には現代にまで続く仏教の宗派がいくつも生まれましたが、それらは、対照的とも見える二つの流れに大別出来ます。
一方は法然ほうねんと親鸞しんらん(法然の弟子)に代表される、「『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えれば極楽に行ける」という、大衆を救う教えです。これは画期的なものでした。というのも、それまでの仏教では救済は僧によってもたらされるとされていたのですが、個人でも念仏を唱えれば救済される教えへと大きく変化したからです。この斬新な教えは旧来の仏教界にとっては都合の悪いものだったので、彼らは朝廷に働きかけて、法然と親鸞を流罪にしました。しかし法然らの教えは庶民の間にも広まっていったのです。この「新しい仏教」は後に浄土宗、浄土真宗という宗派となり、現在、日本の仏教では信者数最多となっています。
ちなみに親鸞は肉食妻帯にくじきさいたい
を公言した最初の僧です。それまでは、僧は肉食妻帯をしないという建前で生きて来ましたが、よく考えれば、妻帯者は極楽浄土に行けないというなら、世のほとんどの人が救われないことになります。親鸞はそれでは仏の教えは広まらないと考えたのか、肉食妻帯を」しても救済されるのだと証明するために敢えて自ら行なったのではないでしょうか。実は多くの僧が隠れて肉食妻帯を行なっていました。平安時代末期の仏教界はすっかり堕落腐敗していたのです。親鸞が肉食妻帯を公然と行なったのは、そうした仏教界へのレジスタンスでもあったのかも知れません。
日蓮宗(法華宗)もこの時代に生まれた新しい仏教です。これを興した日蓮にちれんは数々の迫害にもめげずに布教につとめ、二十一世紀の現在も日蓮宗は多くの信者を得ています。
鎌倉時代に生まれたもう一方の仏教の流れは、法然、親鸞の教えとは対照的なものでした。それは「禅」です。念仏を唱えれば阿弥陀仏によって救われるという思想に対し、「禅」は座禅などの修業によって自らを救済する(悟りを開く)という教えです。これもまた古い仏教界からは弾圧されましたが、禅の厳しい修業は鎌倉武士には受け入れられ、禅宗の曹洞宗や臨済宗は全国に広まりました。さらに鎌倉時代には日本独自の神道理論が形成されました。伊勢神道が生まれたのもここ頃です。
こうして見ると、後の日本人の宗教観、生死観の多くが鎌倉時代に形成されたということが出来ます。その意味で鎌倉時代は、日本の精神史にとっても非常に重要な時代だったのです。 |
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