後醍醐天皇が隠岐に流された元弘二年(一三三二)の暮れ、河内国(現在の大阪府東部)の悪党、
楠木正成
が挙兵しました。実は、正重は前年の下赤坂城で後醍醐方として一度挙兵しており、この時は二度目の企てです。
さて、以下の記述は室町時代に編まれた『
太平記
たいへいき
』によります。同書は軍記物語とはいえ、その内容は一概に創作とはいえないと私は考えています。というのも『太平記』は日本最長の歴史文学であり、著者は不祥ですが、同時代の多くの知識人によって書かれたのは確実とされているからです。物語を面白くするための脚色はあるにせよ、歴史の大きな流れはほぼ同書に書かれているように進んでいます。また実際に資料的価値も高いと見做されています(とはいえ明らかなミスも少なからずある)。
鎌倉幕府は翌年の元弘三年(一三三三)、正成を追討するために十万人の大軍を送りました。これは当時としては凄まじい大軍です(『太平記」には八十万の軍勢と書かれているが実際には十万ぐらいであったろうと考えられている)。
正成はわずか千人の軍勢で
千早
ちはや
城という小さな山城に籠って、これを迎え撃ちました。幕府軍は一気に叩き潰そうと力攻めで押しに押します。ところが正成は戦の天才でした。特に山岳ゲリラ戦を得意とし、鎌倉武士団を翻弄します。幕府軍がどれほど攻めても千早城をおとしことは出来ませんでした。
そこで幕府軍は城を包囲して兵糧攻めに作戦を変更しました。しかし正成は水も食料も十分に用意していたのです。一方、時間を持て余した幕府軍の兵たちは、歌会を始めたり、茶の飲み分け勝負をしたり、碁や双六の遊びにふけったりしだす始末でした。そこへ正成軍が奇襲攻撃をかけ、幕府軍を挑発しました。怒った幕府軍は猛攻撃をかけますが、正成軍の罠にはまって大損害を蒙ることとなります。
以後、幕府軍は包囲することに徹しますが、今度は有力武将の長たちは近隣から遊女を呼び寄せて遊びにふけります。ある御家人の叔父と甥が賽の目のことで喧嘩になり、互に差し違えて死んだ一件から、双方の家臣が争って二百人以上が死ぬ大事件まで起こったといわれています。何という
無様
ぶざま
な体たらくでしょうか。わずか五十年前、蒙古軍に挑んだ鎌倉武士団と同じ武士とはとても思えない有様です。しかし、これが日本の武士のもう一つの姿ともいえます。日本が危機にさらされた時は命懸けで戦う一方、内乱から鎌倉幕府を守るための戦いでは、まったく士気が上がらなかったのです。
鎌倉武士団が苦戦しているとい噂が広まると、周辺の悪党たちが正成軍に味方し、幕府軍の補給路を遮断する行動に出ました。そのために包囲している幕府軍の兵糧が逆に少なくなるという事態に陥り、毎日のように百人、二百人が脱走するようなりました。
閏
うるう
二月には、幕府軍が千早城にかかりきりになっている間隙を衝くように、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、討幕の兵を挙げます。そにため、千早城を包囲していた大名たちは動揺し、中には帰郷する者も現れました。幕府は後醍醐天皇軍の討伐と千早城攻めのため、援軍として御家人の足利尊氏(当時は高氏と名乗っていた)を派遣しましたが、尊氏は幕府を裏切り、五月には幕府の出先機関である京都の
六波羅探題
ろくはらたんだい
を攻め落としてしまいました。
六波羅陥落の情報が千早城を包囲していた幕府軍に伝わると、軍勢は譲位戦を諦めて一斉に撤退を始めました。何と千早城は百倍の軍勢を相手に、半年以上(間に二月があった)も戦い、幕府軍を釘付けにしていたのでした。
同じ頃、鎌倉幕府は上野国新田荘こうずけのくににったのしょう(現在の群馬県太田市周辺)の御家人新田義貞に千早城を攻めるための高額の戦費を要求しましたが、義貞がこれに応じなかったため、幕府は義貞追討令を出したといわれています。ところがこれに怒った義貞が逆に鎌倉へ進軍を始めると、多数の武士が呼応しました。そして義貞は大軍を率いて鎌倉に攻め込みました。この戦いによって北条高時と最後の執権北条守時もりときは自害し、幕府は滅亡しました。楠木正成が千早城で挙兵してからわずか半年で、鎌倉政権は百五十年の歴史に幕を閉じることになったのです。
新田義貞が幕府を倒す事が出来た理由の一つは、正成のために千早城に送り込んだ大軍が半年近くも釘付けにされ、鎌倉の防備が手薄になっていたからでした。
その意味で鎌倉幕府滅亡の真の立役者は楠木正成といえるかも知れません。 |