鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に戻り、親政(天皇・皇帝・王などの君主が三時から政治を行なう事)を行ないました。この親政は一三三四年に改めた建武という元号にちなんで、「建武中興ちゅうこう」あるいは「建武の新政」と呼ばれます。なお、鎌倉幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)は廃され、現在も歴代天皇には数えられていません。
新政府は討幕のために戦った者たちへ恩賞を与えましたが、これは実際に戦った武士に薄く、たいした働きをしなかった公家に厚いものでした。当然のこと武士の間で不満の声が高まります。六波羅探題を滅ぼした足利尊氏も重要な役職に就けなかった一人でした。
尊氏は征夷大将軍を望みますが、後醍醐天皇はそれを拒否し、息子である護良もりよし親王に与えました。護良親王はそいれなるに活躍した人物ですが、尊氏には及びません。
また後醍醐天皇による親裁(天皇自らが命令を下すこと)の多くは約百五十年続いた鎌倉時代の伝統や慣例を無視したもので、さらなる政治的混乱を引き起こしました。その頃、当時の政治や社会を風刺した落書が鴨川の二条河原に誰かの手によって掲げられましたが(作者不祥)、これはあまりにも有名なものです。その冒頭は以下に紹介しましょう。 |
「此比都ニハヤル物、夜討ち、強盗、謀綸旨にせりんじ
召人、早馬、虚騒動そらそうどう
生頸、還俗、自由出家
俄大名、迷者
安堵、恩賞、虚戦そらいくさ」
(訳:この頃都に流行るものといえば、夜討ち、強盗、ニセ文書。使用人の早馬によるそら騒ぎ。生首、僧の還俗、一般人の出家。急に羽振りがよくなる俄か大名、落ちぶれて路頭に迷う者、所領の保証、恩賞目的のでっちあげ戦さ) |
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現代でも高く評価されている七五調と八五調をとり交ぜた名文ですが(原文は八十八行)、当時の社会状況を見事に風刺しています。興味のある方は原文を読んで下さい。
建武二年(一三三五)、滅ぼされた鎌倉幕府の最後の執権だった北条高時の息子、時行ときゆきが建武の新政へ反乱を起こしました。時行は足利尊氏の弟の直義ただよしがいた鎌倉幕府を襲ったので、尊氏は弟を守るため、後醍醐天皇の許可を得ることなく鎌倉を出兵し、反乱軍を鎮圧しました。
尊氏はそのまま京都に帰らず、自分に付き従った武将たちに独断で恩賞を与えます。
このことを知った後醍醐天皇は尊氏の謀叛を疑い、新田義貞に尊氏追討令を出しました。
それを知った尊氏はいったんは武士をやめて出家しようとしますが、尊氏に代わって足利一族を率いた弟の直義が朝廷軍に打ち破られたため、再び前線に復帰して戦う決意をします。
延元えんげん元年・建武三年(一三三六)、尊氏は京都まで進軍しますが、ここで北畠顕家きたばたけあきいえや楠木正成との戦いに敗れ、九州へ逃げます。その途上で光厳上皇(後醍醐天皇に廃位された天皇)の支持を得て「官軍」を名乗り、西日本各地の武将を味方に引き入れることに成功すると、大きな勢力となって再び京都に向かって軍を進めました。
楠木正成はこの状況を見て、すでに多くの武士たちの心は建武政権側ににはなく、足利尊氏のあると悟り、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言します。しかし、これが天皇や側近の不興を買い、正成は国許での謹慎を命じられました。
ところが、尊氏を迎え撃った朝廷軍の総大将、新田義貞が敗北を続けたため、後醍醐天皇は楠木正成を呼び戻します。正成は兵力で上回る尊氏の軍勢に正面から迎撃するのは無理と判断し、足利軍を京都に引き入れてから挟撃する作戦を提案しました。
しかし後醍醐天皇や側近は、都を離れるという大胆な作戦を受け入れることが出来ず、これを却下します。正成はやむなく不利を承知で湊川みなとがわ(現在の神戸市)で尊氏の大軍を迎え撃ちますが、案の定敗れて戦死します(二年後、新田義貞も尊氏方の斯波しば氏との戦いで死去)。
尊氏は湊川の戦いの後、京都に入って後醍醐天皇を降伏させると、持明院統の光明こうみょう天皇(光厳上皇の弟)を即位させ、政治の実権を握りました。こうして天皇の新政による建武政権は「わずか三年で瓦解したのです。
延元元年・建武三年(一三三六)、足利尊氏は光明天皇を即位させると同時に、施政方針を示した「建武式目」十七条を定めました。延元三年・暦応りゃくおう元年(一三三八)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任ぜられます。室町幕府(足利氏の武家政権)成立の時期ははっきりしませんが、このあたりに始まったとされています。なお、「室町幕府」という名称は、三代将軍・足利義満が京都北小路室町(現在の京都市内の今出川通いまでがわどおりと室町通が交わるあたり)に造営した「花の御所」(別名:室町殿)に由来します。 |
| 2025/09/21 |
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