~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
南北朝時代
降伏した後醍醐天皇は足利尊氏の要求に応じて、三種の神器を光明天皇に譲り(三種の神器は古来、即位に必須とされる)、京都に幽閉されました。しかしその年の暮れに秘かに奈良の吉野へ脱出し、光明天皇に渡した三種の神器は偽物で、本物を所持している自分こそが真の天皇であると宣言します。これにより、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)の二つの朝廷が存在するという前代未聞の事態となります。しかも二つの朝廷がそれぞれ異なる元号を用いたから尚更ややこしいのです。
後醍醐天皇は全国に勢力を挽回すべく、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じた武将を派遣しました。これにより、全国の諸将の間で、南朝を正統とする者たちと、北朝を正統とする者たちが内乱を繰り返すこととなります。
コラム-14
前述したように南北朝に分かれたのは、持明院統(北朝)大覚寺統(南朝)に分かれたことがそもそものきっかけです。鎌倉時代には、二つの統から交互に天皇が輩出していましたが、南北朝時代には、両統がともに天皇を即位させるという異例の事態に陥ります。ちなみに二つの系統とも「万世一系」といわれる皇統の男系の血を引くものであり、血統的には由緒正しいのです。
南北朝のどちらが正当であるかという議論は、「南北朝正閏論なんぼくちょうせいじゅんろん」と呼ばれます。
室町時代には南朝が正統と見做されていましたが、その後は北朝が正統と見做されるようになりました。しかし江戸時代には水戸藩が編纂した『大日本史』では、三種の神器を奉持ほうじしていた南朝を正統とする考え方を取っています(ただ江戸時代には北朝支持が一般的)。
ただ、北朝が持っていた三種の神器が偽物だというのは後醍醐天皇の主張によるもので、実は本物であった可能性が高いと私は見ています。というのも、後述するように、正平しょうへい六年・観応かんのう二年(一三五一)に足利尊氏が南朝と和議を結んだ時(尊氏にとっては降伏に近い条件での和議)、南朝は北朝から三種の神器を取り戻しているからです。それらが偽物であったなら、そもそも取り戻す必要はありません。そう考える、南朝と尊氏の和議以前に即位した北朝の天皇は本物の三種の神器を保持していて、逆に南朝の天皇は保持していなかったということになります。とすると、三種の神器を保持しての即位が正統という考え方にも無理が生じます。
それはさておき、明治になってからは、一転して南朝が正統であるという考えになります。もっとも学会においては二つの朝廷は対等に扱われ、国定教科書でもそうなっていましたが、明治四四年(1911)、国定教科書で南朝が正統とされ、北朝は認められなくなりました。以後、大東亜戦争終結まで、「南北朝」という言葉は学会では禁句となり、自由な研究が許されませんでした。
現在、北朝の五代の天皇は、歴代天皇百二十六代の中には数えられていません(北朝六代目の後小松ごこまつ天皇は南北朝が統一されたことにより、百代目の天皇となっている)
2025/09/21
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