足利政権は誕生した時から盤石な体制ではありませんでした。全国の武将たちの間に後醍醐天皇の南朝を支持する勢力があった上に、幕府内でも内紛が生じていたからです。ことに足利尊氏を軍事面で補佐する高師直と、行政面などで補佐する足利直義(尊氏の弟)の権力争いは大ごとに発展し、やがて師直との権力争いに敗れた直義は南朝と手を結びます(その後、直義は師直を殺す)。
すると尊氏は朝廷を南朝に戻すという条件で和議を結び、北朝の天皇を廃して、元号も南朝に合せます。これは直義と南朝の間を裂き、南朝に直義追討の綸旨りんじを出してもらうための策略でした。そのために尊氏は征夷大将軍の解任まで受け入れています。
勢いづいた南朝勢力は京都に侵攻し尊氏の嫡男の義詮よしあきらを追い払い都を占拠しますが、義詮は反撃に転じて南朝を再び京都から追放します。義詮は北朝の元号に戻し、新しい北朝の天皇を三種の神器なしに即位させ、尊氏も征夷大将軍に復帰しました。
一方、幕府の権力争いはその後も続き、直義も結局、尊氏との戦いに敗れ、幽閉された後に死去します(表向きは病死だが暗殺された可能性が高い)。直義の残党はその後も南朝を支持し、幕府と対立し続けました。
この一連の争いは「観応の擾乱じょうらんら」と呼ばれます。南北朝と幕府の権力争いをめぐるこららの出来事は実に複雑で、詳しく書くには本一冊ぐらいの分量が必要になりますが、本書は日本の通史なので、このあたりにとどめておきます。ただ、この騒動を見てもわかるように、室町幕府の権力基盤は実に脆弱で、政敵を倒すためには天皇の後ろ盾が必要だったことがわかります。
その後も、南朝勢力と北朝勢力は各地で小競り合いを起こしていましたが、正平一四年・延文えんぶん四年(一三五九)、九州で南朝を支持する菊池きくち一族をはじめとする勢力と足利勢が戦い、菊池勢が勝利したことで、南朝勢力が九州一円を支配します。この戦いは「筑後ちくご川の戦い」と呼ばれ、かつては「日本三大合戦」の一つとされていましたが、現在では忘れられた戦いともいえます。 |
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