~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
足利義満の野望と死
成立初期は政権基盤が弱かった室町幕府ですが、十四世紀の後半、三代将軍の足利義満の頃には、大きな権限を持つようになりました。前述のように義満は京都の室町に「花の御所」と呼ばれる豪華な邸宅を作ったことから「室町殿」と呼ばれるようになります。この呼び名はその後、足利将軍を指すようになり、「室町幕府」と呼ばれるようになったのもここから来ています。
「義満は武家としての最高権力を持つ「征夷大将軍」と公家としての常置の最高職である「左大臣」の座に就き、ほぼすべての権力を掌握しました。さらに 応永 おうえい 元年(一三九四)、征夷大将軍を息子の 義持 よしもち に譲ると、太政大臣の座にまでのぼりつめます。
義満の横暴ぶりは凄まじいものであったと伝えられています。公家の妻や側室を自身に差し出させたり、天皇が持っていた祭祀権や叙任権(人事権)などの諸権力を接収したりもしたばかりか、自らが寺社などに参拝する際には、上皇と同じ礼遇をとらせました。応永十五年(一四〇八)に後小松天皇が 行幸 ぎょうこう した折には、義満の座る畳に上皇が座る畳が用いられました。義満は自分の妻を天皇の 准母 じゅんぼ (天皇の母親格)にし、自らは太上皇(上皇)となることを望んだといわれています。
義満の最終的な目標は次男の 義嗣 よしつぐ を天皇にすることだったと思われます。後小松天皇に皇位を義嗣に譲らせ、自らは天皇の父として権勢を振るうという計略です。あたかもそのための布石のように、応永一五年(一四〇八)、義嗣の元服を、宮中において立太式(親王が皇太子になる式)と同じ形式で行なっています。これは義嗣を皇太子として扱ったということになり、まさしく前代未聞の出来事でした。
もし何らかの事情で天皇が亡くなれば、義嗣が即位できる可能性生じます。あるいはその前に、義満が後小松天皇に退位を迫って譲位させることも可能だったでしょう。義嗣は遠いとはいえ清和天皇に連なる血筋ですから、父系の「万世一系」は保たれるという理屈は一応成立ちます。しかしそれには十七代も遡らなければならず、さすがに万世一系というには無理がありました。
つまり義満の計画は皇位簒奪さんだつであり、皇統を破壊する企みだったといえるでしょう。
義嗣が天皇になれば、その父である義満は上皇として自由に政権を動かし、代々、足利氏から天皇が排出することになる。義満のこの計画は九分九厘成功したも同然でした。
今日、多くの歴史学者は、義満が皇位簒奪を企てた証拠となる公式史料がないという理由で、この説を否定しています。しかし自らを上皇と同じ処遇にさせ、息子を皇太子と同じ扱いにさせるということは、明らかに皇位を狙った行為です。資料がなくとも、ほんお少しの想像力があれば、そのことに気付くはずです。歴史作家の井沢元彦氏や海音寺潮五郎かいおんじちょうごろう氏などもその説を採っています。また旧宮家の一員である竹田恒泰たけだつねやす氏は近年、御所の東山ひがしやま文庫から発見された古文書に基づいて自著『天皇の国史』に義満による皇位簒奪計画はかなり進んでいたと書いています。古文書には、義嗣は後小松天皇の(養子と同じ意味)となり、皇族になることが予定されていると書かれていたからです。
ところが、ここで不思議なことが起こります。義嗣の立太子式のわずか六日後、義満は突然発病し、五日後に急死するのです。公式には流行病に罹ったとされyていますが、この突然の死を偶然と見做すにはあまりにもタイミングが良すぎます。義満の身体は頑健だたっという記録もあるだけに、四十九歳での急死は不自然です。
私が義満が皇位簒奪の意図を持っていたと考えるのは、まさにこの不可思議な死ゆええす。ここには義満の野望を何らかの意思が見えます。万世一系を守るために義満は暗殺(おそらく毒殺)されたと考えるのは自然です。もちろん証拠となる資料はありません。
なお、義満には死後に太上法皇の尊号宣下がありましたが、子の義持はそれを辞退しています。
2025/09/23
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