足利義満が凄まじいまでの権力を誇った頃、中国では漢民族の王朝、明が勢力を伸ばしていました。義満はこの明と貿易(日明貿易)行ない、巨万の富を得ました。
この貿易は、公私の船を区別するために
勘合
(合い札)を使ったことから「勘合貿易」と呼ばれていますが、勘合が使われた背景には「
倭寇
わこう
」の存在があったことを忘れてはなりません。
倭寇とは十三世紀から十六世紀にかけて中国や朝鮮の沿岸で略奪行為を働いた海賊のことです。中国や朝鮮の文献にも、非常に恐れられた存在であったと書かれています。倭寇という言葉は「日本人による侵略」を意味しますが、これは対馬や壱岐、それに九州沿岸の漁民たちが、元と高麗に対する復讐のために始めたものだと言われています(中国もそれを認めている)。しかし後には海賊行為だけでなく私貿易や密貿易を営むようになり、一部には高麗人も交っていました。
十六世紀の後期倭寇ともなると、倭寇とは名ばかり、構成員の主体は中国人となり、ポルトガル人も含まれるようになります。十六世紀には多くのヨーロッパ船がアジアへ来るようになっていました。ポルトガル人が台湾を発見し「イラ・フォルモサ」(麗しの島)と名付けたのもこの頃です。
日本の一部の教科書には、明が勘合を用いた管理貿易に乗り出した理由が、もっぱら日本人海賊に苦しめられたためと書かれたいますが、これは正確ではありません。
勘合貿易は、日本に利益を与える代わりに、日本に倭寇を取り締まらせるという安全保障政策であったからです。一時は猛威を振るった倭寇も、明の海防の強化と、後に日本国内を統一した豊臣秀吉の海賊禁止令によって完全に姿を消しました。
なお「倭寇」という言葉ですが、当然これは中国や韓国から見た呼称であり、きわめて侮蔑的な意味を含みます。韓国では十六世紀の秀吉による朝鮮出兵や二十世紀の日中戦争における日本軍も「倭寇」と呼んでいます。 |
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