~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
毀誉褒貶きよほうへんの激しい足利義教
義満の跡を継いだ四代将軍の義持(義満の長男)の頃までは、幕府も安定した政権運営をしていました。義持は政治の実権を握ったまま、息子の義量に将軍職を譲りますが、義量は十七歳の若さで急逝します。他に男子がいなかった義持は後継者を決めないまま、病を得て亡くなりました。
義持が危篤になっても後継者を指名しない状況に、困った群臣たちは評議を開き、石清水いわしみず八幡宮で籤引くじびきをして、義時の四人の弟の中から次の将軍を決めることにしました。足利家には長男以外は出家して僧になるというしきたりがあったため、義持の弟たちは皆、僧侶だったのですが、籤引きの結果、次の将軍は五男の義教(当時は義宣よしのぶ)に決まりました。
義持が後継者を決めなかったのは、誰を選んだとしても、有力な守護大名の許可を得なければ認められない状況があったためと言われています。つまり将軍の力がそれだけ弱かったという証左でしょうか。鎌倉幕府や後の江戸幕府においても、籤引きで将軍を選んだケースはなく、呆れるほかはありません。
義教は将軍職を固辞しますが、周囲に押し切られて還俗げんぞく(僧から一般人になること)し、六代将軍となります。当時、石清水八幡宮の籤引きには神の意思があるとされていたので、将軍となった義教は強引なまでの政策をとりました。
「籤引き将軍」と陰で揶揄された義教は、義満時代のような将軍家の復興を目指します。義持の時代に中断していた勘合貿易を復活させて財政再建に取り組み、各地の守護大名や寺社の勢力を削ぎ、幕府権力の強化につとめました。長らく支配下に置くことが出来なかった九州や関東を制圧し、延暦寺をも屈服させます。これは義満でも成し得なかったことでした。
しかしあまりにも強引な手法は多くの敵を作り、最後は部下である守護大名に謀殺されてしまいます。義教の死によって、室町幕府は急速に弱体化していきました。
義教については後世の評価も毀誉褒貶きよほうへんが激しく、織田信長おだのぶながを先取りしたような先進性を持った人物という評価を与える人もいますが、やはりすべてを性急に進めすぎた一面があることは確かです。
人間的には非常に激しやすく、他人に対してしばしば苛烈な処罰を与え、そのため人々に「悪御所」「万人恐怖」と渾名あだなされて恐れられました。たとえば儀式の最中に笑顔を見せた部下に対し、「将軍を笑った」と怒って所領を没収したり、闘鶏見物で集まった群衆のせいで義教の行列の通行が妨げられたとして、京都中の鶏をすべて洛外に追放したり、説教しようとした僧の頭に灼熱の鍋をかぶ、二度と喋れないように舌を切ったりしました。他にも、酌が下手な侍女をさんざん殴って髪の毛を切ったり、梅の枝が折れていたという理由で庭師に切腹を命じたり、料理が不味いということで料理人を処刑したりという記録も残っています。能で有名な世阿弥ぜあみも義教の不興を買って佐渡へ流されました。
こういう激しい気性も織田信長に通じるところがあったと言えるのかも知れません。家来筋の者に討たれるという最期も似てます。
守護大名の台頭から応仁の乱へ
義教の死後、息子の義勝よしかつが八歳で七代将軍となりますが、義勝はその翌年亡くなり、弟の義政よしまさが七歳で将軍に選ばれました(正式に将軍になったのは十三歳の時)
この時代、幕府は財政難と全国各地で頻発した土一揆などに悩まされていました。土一揆とは、民衆(多くは農民)が団結して幕府や守護大名などに徳政令などをするものです。そんな中幼くして将軍の座に就いた義政は周囲の有力者や力の強い守護大名をおさえることが出来ず、次第に政治を疎むようになり、趣味の世界や酒宴に明け暮れるようになります。
そして二十代で将軍職の引退を考えるようになり、出家していた弟を還俗させて養子にして後継者(次期将軍)とします。政治に無関心ともいえる義政の姿勢が、後述する「応仁の乱」を引き起こしたともいえます。
ただ、義政の文化面での功績は大きいものがあります。庭師の善阿弥ぜんあみ、絵師の狩野政信かのうまさのぶ(東山山荘に障壁画を描いている)土佐光信とさみつのぶ、能役者の音阿弥おんあみらを召し抱えて活躍させ、後世「わび・さび」といわれるようになる新たな美意識を有する東山文化と呼ばれる世界を築きました。義政が収集した絵画・茶器・花器・文具などは後に「東山御物ひがしやまごもつ」と呼ばれ、現在その多くが国宝になっています。
2025/09/25
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