室町文化の特色としてまず挙げられるのは、前述の「わび・さび」です。もっともこの言葉が一般的になるのは江戸時代以降ですが、そうした文化は鎌倉時代からありました(それ以前からあったとする説もある)。そして室町時代の後期に大きく花開いたといえます。
「わび」(侘び)とは「心細く思う」「落ちぶれた生活を送る」「困って嘆願す」などの意味を持つ「わぶ」という動詞の名詞形で、もともとは不逞的な意味を持つこの言葉でしたが、室町時代になると、そうした状況を受け入れ、そこに心の安らぎを見出そうという肯定的意味を持つように変化しました。
「さび」(侘び、あるいは然び)は、「さびれる」を意味する動詞「さぶ」の名詞形です。本来は「時間の経過とともにものが劣化する」という意味の言葉だったものが(金属の錆もここから来ている)、室町の頃から、「閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」という意味を持つようになりました。この二つの言葉が合さり、室町時代の茶の文化などと結びついて、日本的な独特の美意識が形成されました。
この「わび・さび」を象徴する存在が、足利義政が建立した銀閣(正式名は慈照寺)です。銀閣については、義政が、祖父の義満が建てた金閣に対抗して豪華な山荘(東山山荘)を建てよとしたものの、財政難のため銀箔を貼る事が出来ず今のような姿になった、と言われて来ましたが、これは俗説です。平成二〇年(二〇〇八)から平成二二年(二〇一〇)にかけての解体修理に伴い、京都府教育委員会が行なった調査で、銀箔説はおぼ否定され、二階の壁が内外とも黒漆で塗られていたことが判明しています。そもそも金閣・銀閣という名前自体が江戸時代に付けられた通称で、もともと二つは対照させられる建物ではありませんでした。義満が自らの権力・財力の象徴として建てた北山山荘と、「応仁の乱」に疲れ政治の世界から逃避するために義政が作った東山山荘では創建の意図からしてまったく違っていたのです(完成は義政の死後だが、義政は生前に東山山荘に移り住んでいた)。
とはいえ、義政の中に、祖父に対抗する気持がなかったとも言い切れません。祖父の金ピカの建物とは違った、質素で幽玄の美を強調する趣味の良い建物を作って、新しい自分なりの美意識と価値観を世に示そうとしたとも考えられます。その独特の美意識が「足りないものを逆に尊ぶ」というものでした。
この「わび・さび」が室町時代を象徴する文化の基軸となっています。茶を点てて心の平安を求める侘茶や、座敷を飾る生け花や立花が流行りました。侘茶や立花を「道」として確立したのもが茶道と花道です。住宅も質素なものとなり、それらは今日の和風建築のもとにもなっています。庭も自然の地形を生かしたものとなり、また枯山水かれさんすいと呼ばれる簡素で象徴的な庭園も作られました。枯山水は水のない庭のことで、池や水を使わずに石や砂などにより山水の風景を表現する日本独特の庭園様式です。
龍安寺りょうあんじの石庭や、龍吟庵りょうぎんあんの東庭が有名ですが、これらは二十世紀のヨーロッパに生まれた表現主義や象徴主義の前衛芸術の思想を数百年も先取りしたセンスと言えます。
わずかな動きで自然を表現する能や狂言が発達したのこの頃です。絵画の世界でも、墨の濃淡だけで自然を描く水墨画が雪舟せっしゅうによって完成されました。
「わび・さび」という美意識から生まれた様々な文化や考え方は、その後の日本人の生活や文化に強い影響を与え、現代に生きる私たちの中にも一種の思想となって根強く生きていると言えるでしょう。
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