義政の将軍時代に「応仁の乱」が始まりますが、この戦いがなぜ始まったのか、目的は何だったのかについては、後世の歴史学者たちの頭を大いに悩ますところです。
様々な人物の思惑が背景にあり、それらが複雑に絡み合っていて、説明をすること自体が困難だからです。そこでいささか乱暴な記述になりますが、私が敢えて簡潔に述べてみようと思います。
そもそも始まりは
管領
(室町幕府においては将軍に次ぐ役職)を出す家柄の一つであった
畠山
はたけやま
氏の後継者争いでした。それが大きな乱に発展したのは、将軍や別の管領家の後継者争いが絡んだからです。
義政には男子がいなかったため、寛正五年(一四六四)、僧になっていた弟の
義視
よしみ
を後継者に指名します。義視は、兄の義政に将来男子が生まれる可能性を考えて固辞しますが、義政は「たとえ男子が生まれても、その子は僧にする」という証文を書いて、義視を還俗させました。
ところが翌年、義政に男の子(後の
義尚
よしひさ
)ができます。義政の妻、
日野富子
ひのとみこ
は自分の産んだ子(義尚)を将軍にしようと考え、有力守護大名の
山名宗全
やまなそうぜん
に義尚の後ろ盾になってもらうよう依頼しました。
一方の義視は管領だった細川
勝元
かつもと
を頼ります。
このことから山名と細川が争うことになるのですが、おかしなことに後の補佐役が入れ替わります。すなわち山名宗全が義視を補佐し、細川勝本が富子と義尚を補佐するようになるのです。つまり将軍家の相続争いは単なる名目に過ぎなかったともいえるのです。というのも、山名宗全と細川勝元との間にはそれ以前から権力をめぐっての確執があったからです。このあたりが「応仁の乱」のややこしいところです。今日、日野富子が義尚を将軍にしようとして乱が起こったという説は歴史学者の間では否定的な意見が多いようです。乱の一番の原因は、山名宗全と小曽川勝元の覇権争いにあったのではないでしょうか。とはいえ、義視と義尚の後継者争いがあったことは事実のようです。いずれにせよ、応仁元年(一四六七)、山名宗全と細川勝元が京都を戦場にして戦う「応仁の乱」が始まります。
二人の戦いは、やがて他の有力守護大名たちを巻き込んだものとなり、山名側(西軍)と細川側(東軍)に分れて、全国的な争いへと発展していきます。争いは混沌とし、各大名たちは最初西側についていたかと思うと、いつの間にか東側につき、あるいはその逆もあって、次第に敵味方も判然としない有様になっていきました。この乱で京都市街が戦場となり、この時期に生まれた足軽たち(戦闘に従事する末端の雑兵)の放火や略奪が横行し、市街の大半が焦土と化します。この時、多くの貴重な史料や文献が失われました。
戦いが始まって七年目の
文明
ぶんめい
五年(一四七三)、総大将であった山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなりましたが、乱は終わりませんでした。同年十二月、義政は将軍職を八歳の義尚に譲りますが、全国的な争いはその後も続きます。もはや何のために戦っているのかわからない状態でした。
結局、乱は十一年間続いた後、急速に収束していきます。何も決着がつかず、勝者も敗者もない争いであり、後半の何年かは、ただ惰性的に各地で大名たちが戦っていただけでした。主だった将が戦死することもなく、戦後に罪に問われた守護大名もいなかったのです。
日本史上、幾多の戦いがありましたが、これほど無意味な戦いは例がありません。
当時の人たちもこの争いの意味を理解出来なかったらしく、同時代の興福寺の僧、尋尊じんそんは日記『尋尊大僧正記』に「いくら頭を捻ひねっても大乱が起こった原因がわからない」ということを書いています。歴史年代の語呂合わせ「一四六七ひとよむなしい応仁の乱」は応仁の乱の本質を見事についています。
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