応仁の乱以後、管領職を独占した細川氏が政治の実権を握りました。この期間は
明応
二年(一四九三)から
天文
てんぶん
一八年(一五四九)まで半世紀以上の長きにわたります。
時代区分としては室町幕府の時代となっていますが、実質的には「細川政権」と呼ぶべきものでしょう。ただ細川氏もまた盤石ではなく、一族内で何年も争いを続けます。足利氏の将軍は名ばかりのものとなり、権力争いの道具にすぎなくなっていました(近年では一応機能していたという説も濃厚となっている)。
細川政権には全国を統治する力など到底なく、各地の守護大名や有力武士たちを抑えることが出来ませんでした。そのため全国のあちらこちらで、力のある者が独自の自治体を作り、武力で土地を奪い合うという弱肉強食の時代に突入していきます。
この頃、武士と同じくらいの力を持っていたのは寺院でした。武器を持った僧たちの集団は強大で、彼らもまた宗教的権威に加え、宗教的武力にものをいわせて、広大な土地を支配しました。とりわけ浄土真宗(一向宗。ただし蓮如れんにょは一向宗と呼んだ)は勢力を伸ばし、信徒たちが一向一揆を起こします。彼らは守護大名や戦国大名といった武家集団と戦い、しばしばこれを破りました。中には守護大名を領地から追放し、自治領を作った所もあったほどです。もっともそれを利用したのは総本山である本願寺でした。
こうした弱肉強食の流れは十六世紀に入ってさらに加速し、やがて戦国大名と呼ばれる存在が台頭します。先駆けといえるのが関東を支配した北条早雲そううんでした。この後、全国に有力な大名が次々と現れますが、興味深いのは、戦国大名の多くが伝統的な守護大名ではなく、そん配下にあった守護代や国人などの新興の勢力だったことです。
中には家臣が主君から権力を奪ってのし上った「下剋上」も少なくありませんでした。大和朝廷の成立以来、連綿と続いていた旧来の権威が通用しなくなったともいえます。
ちなみに前述の北条早雲は、無名の素浪人から大名になった下剋上の典型的な存在といわれていましたが、近年の研究では、室町幕府の政所まんどころ(将軍家の家政・財政機関)の執事だった伊勢氏の出であったらしいとも言われています。ただ早雲とそれに続く後継者たちが関東一円を支配する大名になった過程は下剋上そのもので、その意味では、やはり北条早雲こそ戦国大名の嚆矢こうしといえると私は考えてます。
こうして誕生した戦国大名たちの領土は「分国」と呼ばれました。もはや室町幕府の支配力は地方にはまったく及ばなくなり、将軍は形だけの存在となり、「国分」それぞれが独自のルールで統治する独立国のような存在となっていったのです。
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