~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
戦国時代の前半
応仁の乱以後、管領職を独占した細川氏が政治の実権を握りました。この期間は 明応 めいおう 二年(一四九三)から 天文 てんぶん 一八年(一五四九)まで半世紀以上の長きにわたります。
時代区分としては室町幕府の時代となっていますが、実質的には「細川政権」と呼ぶべきものでしょう。ただ細川氏もまた盤石ではなく、一族内で何年も争いを続けます。足利氏の将軍は名ばかりのものとなり、権力争いの道具にすぎなくなっていました(近年では一応機能していたという説も濃厚となっている)
細川政権には全国を統治する力など到底なく、各地の守護大名や有力武士たちを抑えることが出来ませんでした。そのため全国のあちらこちらで、力のある者が独自の自治体を作り、武力で土地を奪い合うという弱肉強食の時代に突入していきます。
この頃、武士と同じくらいの力を持っていたのは寺院でした。武器を持った僧たちの集団は強大で、彼らもまた宗教的権威に加え、宗教的武力にものをいわせて、広大な土地を支配しました。とりわけ浄土真宗(一向宗。ただし蓮如れんにょは一向宗と呼んだ)は勢力を伸ばし、信徒たちが一向一揆を起こします。彼らは守護大名や戦国大名といった武家集団と戦い、しばしばこれを破りました。中には守護大名を領地から追放し、自治領を作った所もあったほどです。もっともそれを利用したのは総本山である本願寺でした。
こうした弱肉強食の流れは十六世紀に入ってさらに加速し、やがて戦国大名と呼ばれる存在が台頭します。先駆けといえるのが関東を支配した北条早雲そううんでした。この後、全国に有力な大名が次々と現れますが、興味深いのは、戦国大名の多くが伝統的な守護大名ではなく、そん配下にあった守護代や国人などの新興の勢力だったことです。
中には家臣が主君から権力を奪ってのし上った「下剋上」も少なくありませんでした。大和朝廷の成立以来、連綿と続いていた旧来の権威が通用しなくなったともいえます。
ちなみに前述の北条早雲は、無名の素浪人から大名になった下剋上の典型的な存在といわれていましたが、近年の研究では、室町幕府の政所まんどころ(将軍家の家政・財政機関)の執事だった伊勢氏の出であったらしいとも言われています。ただ早雲とそれに続く後継者たちが関東一円を支配する大名になった過程は下剋上そのもので、その意味では、やはり北条早雲こそ戦国大名の嚆矢こうしといえると私は考えてます。
こうして誕生した戦国大名たちの領土は「分国」と呼ばれました。もはや室町幕府の支配力は地方にはまったく及ばなくなり、将軍は形だけの存在となり、「国分」それぞれが独自のルールで統治する独立国のような存在となっていったのです。
戦国時代の後半
十六世紀の半ばから後半にかけて出た主な戦国武将としては、関東の大半を支配した北条氏康うじやす(早雲の孫)甲斐かい(現在の山梨県)武田信玄たけだしんげん越後えちご(現在の新潟県)上杉謙信うえすぎけんしん 上杉謙信うえすぎけんしん(長尾景虎ながおかげとら)美濃みの(現在の岐阜県)齊藤道三さいとうどうさん出羽でわ(現在の山形県)陸奥むつ (現在の宮城県など)伊達政宗だてまさむね安芸あき(現在の広島県)毛利元就もうりもとなり、土佐(現在の高知県)長宗我部元親ちょうそがべもとちか、薩摩(現在の鹿児島県)島津貴久しまづたかひさなどが挙げられます。彼らは皆、歴史ファンには大人気の武将で、それぞれに人間的魅力もあり、興味深いエピソードも豊富で、歴史小説の主人公としてもよく描かれますが、前に述べたように、日本の通史を見る上では重要な人物とはいえず、彼らの個々の武勇伝に目を留める必要なないと言っていいでしょう。
彼らは互に近隣の大名との領地争いに明け暮れていて、天下統一に向けた行動は起こしませんでした。たとえば、武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」は非常に有名ですが、これとて戦国時代に数多あまたある地方合戦(小競り合いに近いもの)の一つにしぎません。もともと地方の大名は、京都に攻め上れば、その間に自分の領地が奪われてしまうという大きなリスクがあったため、容易に動けないという事情もありました。つまり天下取りの上洛は、近隣の諸大名を完全に支配下に置いてからでないと無理だったのです。そもそも当時は天下統一を目指した大名などはいませんでした。彼らは自らの領国の安定を第一に考えていました。
永禄三年(一五六〇)桶狭間おけはざまで織田信長に討ち取られた今川義元いまがわよしもとは、天下取りを目刺して上洛中だったという説がありますが、これは誤りで、「桶狭間の戦い」も単なる領地争いの地方合戦の中で起こった出来事でした。
戦国時代に最初に武力で京都を支配したのは、畿内一円を支配していた三好長慶みよしながよしです。天文一八年(一五四九)、長慶は細川晴元はるもとを京都から放逐し、実質的な政権を握りました。その意味では、三好長慶は戦国時代の最初の天下人ともいえますが、その力もまた細川政権と同様、全国を支配するには程遠いものでした。そのため、各地の戦乱は一向に収まらず、やがて政治の実権は長慶から三好家の家臣、松永久秀まつながひさひでに奪われていきます。しかし久秀も畿内の平定に精一杯で、天下統一を目指すことはありませんでした。
「応仁の乱」以後、旧来の社会制度が崩壊して乱れた世相を、当時の公家たちは古代中国の「春秋戦国時代」になぞらえて「戦国の世」と称しました。当時の武将たちも自らの生きる同時代を「戦国」と呼んでいました。
ところが不思議と江戸時代には「戦国時代」という言葉は使われず、当時の元号から「元亀天正げんきてんしょうの頃」と表現されていました。戦国時代という名称が一般的になるのは明治以降のことです。
2025/09/28
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