領地争を続ける戦国大名の中で、急速に勢力を伸ばしていたのが織田信長でした。
桶狭間で今川義元を破った信長は、諸大名との同盟策作を駆使し、また近隣の敵を滅ぼして領地を拡大していきました。近年、信長が天下統一を目指すようになったのはかなり後のことだという説が主流になっているようですが、私は永禄一〇年(一五六七)、尾張と美濃の一帯をほぼ支配下に置いた頃から、信長は天下統一を目指すようになたっと考えています。というのも、この頃から信長は自らの朱印(公的文書に押す印章)に「天下布武」という文字を使い始め、城下町「井ノ口」の地名を「岐阜」に改めているからです。「天下布武」とは「天下に七德の武を布く」とう意味で、岐阜は「周の文王が岐山ぎざんより起こり天下を完む」という古事にちなんで命名したといわれています(阜は山と似た意味)。もっとも当時「天下」という言葉は、京を中心とする畿内一円を指したともいわれています。いずれにせよ、信長が畿内一円を手中に収めようと考えていたことは間違いありません。
この頃、京都では政権を取り戻そうとしていた十三代将軍・足利義輝よしてるが、三好家の家臣である三好三人衆に暗殺されるという大事件が起きます(永禄八年【一五六五】、永禄の変)。一般には松永久秀が暗殺したと言われていますが、事実は違うようです。三好三人衆は義輝の従兄弟を将軍にして、自分たちの傀儡としました。
奈良に逃れていた足利義昭よしあき(後の十五代将軍。当時の名前は義秋よしあき)は、全国の諸大名に、三好氏を討伐し自らを将軍として擁立ようりつするよう檄を飛ばします。しかし武田信玄や上杉謙信らは近隣諸国と対立していたため動くことが出来ませんでした。そこで義昭は京都に近い越前の朝倉義景あしかがよしかげについで、岐阜の織田信長に上洛を要請します。
永禄一一年(一五六八)、信長は足利義昭を奉じて上洛し、三好三人衆を四国へ追い払いました。同年、義昭を十五代将軍に擁立して、政治的実権を手にしますが、その後、義昭と対立し、元亀四年(一五七三)には義昭を京都から追放します。こうして室町幕府は二百四十年の歴史に幕を閉じたのです。
|