~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
乱世の怪物、織田信長
京都を支配下に収めた信長でしたが、この時点では全国の大名たちを抑え込むまでの力はありませんでした。
天下統一を狙う信長は、強大な兵力を手にするために、先ず経済力を持とうと考えました。その具体策として楽市楽座を敷き、城下町の経済を振興させます。当時、商人の組合のような存在であった「座」を廃止し、経済活性化を図ろうとしたのです。
それまで商人たちは、商売をするのに「みかじめ料」のようなものを寺社やその土地の実力者、座などに支払ていましたが、信長はそれらをなくしました。こえは現代風に言えば、「規制緩和」と「滅税」です。そうなれば当然経済は発展します。おそらく信長も「税金」のようなものは徴収しました( 矢銭 やせん 判銭 はんせん と呼ばれるもの)。ただしその額はそれまでの寺社に納めていたものよりも少ないものでした。とはいえ、方々の寺社や有力者にばらばらに納めていたものをまとめれば大変な額になります。さらに経済発展のために 撰銭令 えりぜにれい (良銭と悪銭を区別して交換レートを定めること)などの貨幣改革を行なって貨幣価値を安定させました。さらに堺などの豊かな都市も直轄地としました。こうして大きな財力を摑んだ信長は、他の戦国大名にはないアドバンテージを手に入れることが出来ました。もっともその代わりに寺社の恨みを買うことになります。
ちなみに信長の旗印は明の銭である「永楽通宝」です。銭を軍の旗印に掲げるほど、経済を重要なものと見做していたのです。もっとも、銭を旗印にしていた大名は他にもいて(真田幸村で有名な信州の真田家の旗印は「六文銭」)、経済力を重要と考えた武将は少なからずあったということでしょう。
当時、多くの戦国大名の兵力の大半を占める兵隊( 徒士 かち や足軽)は農民でした。普段は田畑を耕作している男たちが、戦となれば兵隊として戦場に駆り出されていたわけですから、大遠征や長期戦を行なうことは困難でした。武田信玄と上杉謙信の数次にわたる川中島の戦いが、いずれも短期間であったのはそのためです。ところが経済力を手に入れた信長は兵隊を金で雇うようになります。つまり戦いの専門家(傭兵)を他の大名に比べてより多く持つことが出来たのです。
信長はこうした経済政策をとったために、それまで商人たちから「みかじめ料」を取っていた寺社勢力と真っ向から対立することになります。天台宗(総本山は比叡山延暦寺)や浄土真宗(総本山は石山本願寺)は、信長と対立する大名と手を結びました。そしてついに元亀元年(一五七〇)、本願寺十一世である 顕如 けんにょ が、神仏をないがしろにして武力による天下統一を狙う信長を「仏敵」と見做し、全国の本願寺門徒(信者)に、「信長打倒」の檄を飛ばして決戦を挑むことになります。ここに、信長と本願寺の十年にわたる凄まじい戦いが始まります。
当時の寺院の兵力は戦国大名と対等かそれ以上のものでした。僧兵が武器を持っていた以上に、戦国大名の兵たちが仏罰を恐れていたことが大きかったのです。一方の信長は仏教の力をまったく恐れませんでした。元亀二年(一五七一)の延暦寺との戦いでは、寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を皆殺しにしました。天正二年(一五七四)の伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、女性や子供を含む二万人を殺しています。
これは日本の歴史上類を見ない大虐殺といっていいでしょう。少なくともこれ以前の歴史上に、壬申の乱、源平合戦、鎌倉幕府倒幕の戦い、応仁の乱などの数々の戦いがありましたが、戦闘員でない老人、女性、子供までを大勢虐殺した記録はありません。
信長という人物がいかに日本人離れした残酷さを備えた人物であったかがわかります。
彼は「仏罰」というものを信じていませんでした。その点でもきわめて現代的な感覚の持ち主だといえるのですが、一方、熱田神宮をはじめとする多数の神社に莫大な寄進をしたほか、室町時代後半から百年以上も中断していた伊勢神宮の式年還宮を多額の寄進をして復興させようとしたことを考えれば、単なる無神論者だとはいえません。むしろ日本の伝統と神道に対して深い敬意を持っていたのではないでしょうか。
ただし信長は、戦国大名との戦いにおいて、勝った後に相手の兵隊や住民を殺害することはありませんでした(相手方の武将の一族には、しばしば報復的な殺戮をしている)。彼が皆殺しにしたのは一向宗のように、自分に敵対する宗教勢力に限られています。これは信長が、宗教のもたらす狂信的な力を憎み、その勃興を恐れた証でしょう。特に一向宗や延暦寺は将軍の足利義昭や武田信玄や朝倉義景と連携し、信長包囲網を敷いて、信長を苦しめただけに、その報復はすさまじいものとなりました。
しかし信長は武田氏や朝倉氏を滅ぼし、中部地方や北陸地方を支配下に置いていきます。おして天正八年(一五八〇)、十年の長きにわたって戦った大坂の石山本願もついに降伏させ、天下統一まであと一歩のところまでこぎつけました。
ところが、その二年後の天正一〇念(一五八二)、京都の本能寺に滞在していた信長は家臣の明智光秀あけちみつひでの謀叛によって討たれます(本能寺の変)。この事件に関しては、多くの小説家が様々な説を述べていますが、私は明智光秀が個人的な恨みから起こした単純なもので、用意周到に煉られたものではなかったと思います。なざなら、その後の行動がきわめてお粗末だからです。
ともあれ、信長は天下統一を目前にして亡くなりました。天下統一を目指すきっかけとなった桶狭間の戦いの直前、信長はお気に入りの幸若舞こうわかまい敦盛あつもり』の「人間五十年、下天のうちを比ぶれば。夢幻の如くなり」という一節を舞ったと言われていますが(事実かどうかは不明)、本能寺で亡くなったその時、まさに五十歳手前の数え年で四十九歳でした。
織田信長の出現は日本史におけるエポックメーキングな出来事です。私は、信長の出現がなければ、戦国時代はあと半世紀は続いていたのではないかと考えています。
信長は単に戦に強かったというだけでなく、古い社会通念に縛られない、きわめて近代的な合理主義に基づく考え方をする人物でした。旧来の制度やしきたりをいくつも廃し、自らの家臣についても、身分や出目に囚われることなく、能力がある者はどんどん出世さえました。キリスト教宣教師から献上されて黒人奴隷「彌助やすけ」を家臣にしていますが、信長はいずれ彼に領地を与えて城主にするつもりであったといわれています。当時ユーラシア大陸の国家で、国人を重用した国はおそらくなかったでしょう。信長が肌の色で人を区別することがなかった証拠といえるかも知れません。余談ですが、初めて彌助を見た信長は、彼が肌に黒い色を縫っていると思い、身体を洗わせたという話が残っています。黒人を見たことがなかった日本人らしい反応のエピソードです。なお、彌助は本能寺の変で光秀に捕らわれて助命されますが、その後の消息は不明です。
コラム-17
信長という人物について書かれたもので興味深いのは、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。フロイスは永禄六年(一五六三)に三十一歳で来日し、以後三十四年間を日本で過し、六十五歳で長崎で亡くなった人物です。織田信長や豊臣秀吉にも会い、冷静な観察眼で彼らの人物評を書き残していますが、信長についてはこう書かれています。
「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、厳格だった」「ほとんどまたく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた」「彼は日本のすべての王侯を軽侮し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教徒的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」とる一方、「極卑賎の家来とも親しく話をした」とあります(いずれも『信長とフロイス』より)
ついでながら、明智光秀も紹介していきましょう。
「裏切りや密会を好み、刑罰を科するに残酷。忍耐力に富んでおり、謀略の達人」
これもなるほどと思わせる評です。
2025/09/30
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