信長の突然の死によって、歴史の檜舞台に躍り出た人物がいました。信長の家臣の一人であった
羽柴秀吉
です。もとの名を
木下藤吉郎と
きのしたとうきちろう
といった秀吉は、一介の足軽から成り上がった男でした(異説あり)。若い時から非常に才覚に優れ、それを高く評価した信長のよって取り立てられ、織田家の重鎮にまで出世していました。もし秀吉が信長以外の武将に仕えていたなら、おそらく侍大将になることすら難しかったでしょう。「人たらし」といわれるほど人心を掌握する術に優れ、多くの武渉の心を摑んだ逸話が多く残されています。信長に取り立てられたのもそれゆえのことでしょう。
信長が本能寺で光秀に討たれた時、秀吉は
備中国
びっちゅうのくに
(現在の岡山県)で毛利軍と戦っている真っ最中でした。主君の信長が光秀に討たれたという情報を摑むや、秀吉は直ちに軍を率いて畿内に戻り、山崎(現在の京都と大阪の府境)で明智光秀の軍勢を打ち破ります。「本能寺の変」からわずか十一日後のことでした(「三日天下」という言葉は、この時の明智光秀を指して生まれた)。この山崎の戦いで天王山を制した秀吉が最終的に光秀に勝利したことから、現在でも政治やスポーツなどの重大な試合や局面の比喩に「天王山」という言葉が使われます。
その後、秀吉は信長の後継者争いにも勝ち、天下統一に乗り出しました。信長同様、戦上手の彼は、多くの戦いを制して九州と関東・東北を除く全国を支配し、天正一四年(一五八六)、
正親町
おおぎまち
天皇から豊臣の姓を賜わり、公家として最高職の太政大臣に就きます。秀吉はその前年に五摂家の
近衛前久
このえさきひさ
の
猶子
ゆうし
(形式的な養子)となり、公家となって藤原姓を名乗っていました。
天正一五年(一五八七)に秀吉は九州を制圧、天正一八年(一五九〇)に関東と東北を制圧し、ここに約百年続いた戦国の世は終りを告げました。信長が本能寺で討たれた八年後のことでした。
ただし秀吉の天下統一は日本全土に及ぶものではありませんでした。とりあえず、すべての大名を服従させたにすぎず、その政治機構は中央集権的なものではなく、それぞれの地方では戦国時代同様、各大名が治める封建社会態勢が継続していました。
しかし秀吉の絶対的な武力の前に反旗を翻す大名はおらず、東海に一大勢力を持っていた徳川家康も秀吉に臣従しました。
ちなみに前出のフロイスの秀吉評はかなり辛辣です。
「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬢が少なかった」「彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の誰に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった」「関白は極度淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの未婚の娘および未亡人をすべて連行して来るように命じた」
いやはや、ひどい書かれようです。秀吉の並外れた好色ぶりと女漁りはよく知られていますが、それにしても、フロイスのこの記述には多少の誇張があるとも言われています(側室の数など)。秀吉は後にキリスト教を弾圧しただけに、フロイトの評には個人的な恨みが込められている部分もあると考慮すべきですが、晩年の秀吉は非常に傲慢になり、横暴な一面を見せるようにもなりました(千利休に切腹を命じたり、自分を貶した落首らくしゅ(公共の場で立て札に書かれた狂歌)を書いた人物を探し出し、警備の番衆十七人の鼻を削ぎ耳を切っ磔にし、関係した数十名を磔刑に処したこともあった)。余談ですが、戦国大名では当たり前だった「小姓を相手にしての男色行為(後に「衆道」と呼ばれる)」には、秀吉はほとんど興味を示さなかったと言われています。
ところで、秀吉が多指症(右手)であったという記述ですが、これに関しては、他にも証言が残っています。私が興味深く思うのは、当時の人々からは奇異に見られていたであろうに、彼が指を切り落としていなかったことです。私はそこに、名もなき足軽から天下人にまでのし上った秀吉という人物の、異常に強い自尊心と意地のようなものを見る思いがします。なお、差別につながるのを避けるためか、多くの歴史書に秀吉の多指症についての記述はありません。 |
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