~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
鉄砲天来
話が少し遡りますが、天文一二年(一五四三) 種子島 たねがしま に中国船が漂着しました。
その船に三人のポルトガル人が乗っており、これが記録に現れるヨーロッパ人と日本人の最初の邂逅となります。室町時代の終り頃で、管領の細川氏が執権を握っていた時代でした。
この時、ポルトガル人が持っていたあらゆる品物が種子島の人々の興味を惹きますが、領主の種子島 時堯 ときたか が最も関心を寄せたのは鉄砲(火縄銃)でした。
鉄砲は十五世紀に現在のドイツで発明されたもので、日本人にとっては未知の武器でした。時堯はポルトガル人が射撃の実演をしてみせた鉄砲を二丁購入します。そして刀鍛冶の 八板金兵衛 やいたきんべえ に命じて数十丁を複製させました。金兵衛が作った国産第一号の火縄銃は、現在、鹿児島県西之表市の文化財として種子島開発綜合センター(鉄砲館)に展示されています。
その後、堺から商人の 橘屋 たちばなや 又三郎 またさぶろう が種子島を訪れ、一年かけて鉄砲の製法を学んで帰りました。又三郎は鉄砲製造と販売を行い、堺は全国有数の鉄砲産地となります。堺の鉄砲はその後、多くの戦国大名によって購入されますが、この地を支配下に置いていた織田信長が最も多くの鉄砲を所有し、他の大名との戦いを有利に進めることになります。長篠の戦いにおいて、織田・徳川の連合軍が当時最強と噂されていた武田家の騎馬軍団に圧勝したのは鉄砲によると言われているのはこうした経緯によります。
それにしても驚くべきは、当時の日本人がヨーロッパの鉄砲と火薬の技術をたちどころに吸収し、量産化に成功したことです。一説によると、戦国時代末期の日本の鉄砲保有数は世界一だったともいわれています。といっても統計的資料はないので、事実かどうかは不明です。ただ当時ヨーロッパからやって来た宣教師の多くが日本の軍事力に驚嘆していることから、相当数の鉄砲が存在したことはたしかです。
イエズス会宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(信長に彌助を献上した人物)は、天正七年(一五七九)にイエズス会総長に宛てて、「日本を外国人の兵によって征服することは困難である」という旨の手紙を送っています。理由は「日本はこの世でもっとも堅固で険しい地で、日本人はもっとも好戦的だから」というものです。二番目の理由は「日本人はきわめて大勢であり、海に囲まれた島々にもいるため」としています。そして結論としてポルトガルとスペインの両国王が日本を征服しることは、戦費が相当かさむことからも経済的に割りが合わない、つまり無理だと告げています。
この時代にヨーロッパから伝わったもう一つの重要なものがキリスト教でした。
天文一八年(一五四九)、カソリック教会の男子修道会イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(スペイン生まれ)によって初めてキリスト教が伝えられます。ザビエルは同時にヨーロッパから様々な品を持ち込みましたが、眼鏡もこの時初めて日本に持ち込まれたものの一つです。
ザビエルは日本に滞在した二年間、西日本各地で精力的に布教活動を行ないます。その後、来日した宣教師たちも、妨害や迫害に遭いながらも布教活動を続け、織田信長の庇護を受けたことで、信者(キリシタン)を増やすことに成功します。一般庶民だけでなく、大名や侍の中からもキリシタンとなる者が出ました。
信長がキリスト教の布教を認めたのは、生来の新しいもの好きという性格もありましたが、一向宗の力を削ぐためということもあったのかも知れません。
2025/10/01
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