~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
検地と刀狩
秀吉は天下統一を果たしていくと同時に支配地で検地を行なっていきました。実は信長も検地を行なっていましたが、秀吉はこれを徹底させ、そのため「太閤検地」と呼ばれています。
検地とは田畑の面積と石高(米などの収穫量)の調査のことです。それまでは開墾された田畑で申請されていないものも多く、貴族や農民がどれだけの農地を所有しているのか実態が掴めていませんでした。秀吉が検地を行なったのは徴税のためですが、譬えれば、無申告の収入を洗い出すようなものです。しかし検地により全国の石高が判明し、日本の国力が正確に把握された一面もあります(当時の日本は食料自給率一〇〇パーセントなので、人口は石高によってある程度判断出来る)
また課税対象者を、土地の所有者ではなく、耕作者にした点が出色でした。これによって長らく存在していた土地の中間搾取者が一掃され、同時に奈良時代から続いていた荘園制度がなくなり、近代的ともいえる土地制度となったからです。
秀吉が行なったもう一つの大胆な政策は、農民から武器を取り上げる「刀狩」でした。刀狩そのものは、秀吉以前にも鎌倉幕府が寺に対して行ない、戦国時代にも柴田勝家などが行なっていましたが、秀吉は天正一六年(一五八八)に全国の農民たちを対象に大々的に実施したのです。
それまで、農民の多くは(町人も)武装しているのが普通でした。当時の農民は、平時は農作業をし,戦となれば兵として出陣する存在であり、また平素、自分たちの土地や財産を守るためにも武器は必需品でした。それを取り上げるということは、当時としては非常に大胆な政策でした。少々飛躍した譬えになりますが、アメリカ合衆国が市民から銃を没収するくあいの政策といえるでしょう。
歴史家の中には、織田信長のもとで一向一揆を何度も鎮圧した秀吉が、武装農民を危険な存在と考え、「兵農分離」を目指して「刀狩」を実施したと主張する人も少なくありませんが、私はそれには少し疑問を感じています。
天下統一を果たした秀吉は、戦乱の時代を終らせて、社会に治安の維持をもたらしかったのではないでしょうか。なぜなら「刀狩令」を出す以前に、「惣無事令そうぶじれい (すべての地域において大名間の私闘を禁ずる法)や「喧嘩停止令」(私闘の禁止)を出しているからです。当時は戦国時代の名残もあり、農民(町人も含めて)が武器を手にして互に争うことがよくありました。つまり「刀狩」とは、戦国時代を終わらせようという目的の策だったのかも知れません。従来いわれていた一向一揆の防止が第一目的であったという説には、私は疑問を持っています。しの証拠に、没収したのは刀だけで、その他の武器は対象外であり、地域によっては刀狩の後にも刀を持つことを許されたところもあったからですから。
ただ「刀狩」によってそれまで曖昧だった武士と農民の区別が明確になり、後に身分の固定化が進んでいきます。その意味で、秀吉の「刀」は歴史的に非常に大きな意味を持つ政策だったといえます。
2025/10/03
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