秀吉は天下統一後、かつて日本の為政者の誰も考えなかったことを計画しました。
大明帝国の征服です。もっとも明を攻めるという発想はもともと信長のものだったとも言われています(フロイスの記述に残っている)。
秀吉はまず明の冊封国である李民朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)に服属を強要し、明への道案内を要求しましたが、拒否されたので、天正二〇年(一五九二)、朝鮮を征服するために十五万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣しました。これを「文禄の役」といいます。日本にとっては「白村江の戦い」以来、約九百年ぶりに行なわれた海外派兵でした。また「蒙古来襲」以後約三百年ぶりの対外戦争です。
日本軍を迎え撃ったのは朝鮮軍約十九万五千人(うち二万二千人は義兵軍)と、明軍約五万三千人です。両軍合せて四十万人を超える戦争は、十六世紀当時の世界最大規模のものでした。
戦闘は日本が朝鮮軍を圧倒し、わずか二十一日で首都の
漢城
を陥落させました。
一時は朝鮮半島のほぼ全土を制圧しますが、明が参戦したことや、慣れない異国での長期戦ということもあって、戦線は膠着状態に陥りました。戦いが四年に及ぶと、日本軍の中にも厭戦気分が蔓延し、文禄五年(一五九六)には日本と明の間で講和交渉が行なわれ、休戦となります。
実はこの時、双方の講和担当者は、本国に向けて、相手が降伏したという偽りの報告をしました(この時の講和は日本と明の間で行なわれ、抗戦を主張する朝鮮は完全に蚊帳の外に置かれていた)。
文禄五年(一五九六)、明は秀吉に対し、日本国王の称号と金印を授けるために使者を派遣します(日本が降伏して臣下になったと思っていたため)が秀夫氏は激怒して使者を追い返し、朝鮮へ再度の出兵を決定したのです。
翌慶長二年(一五九七)、秀吉は十四万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣しました。
これを「慶長の役」と言います。緒戦の
漆川梁
しつせんりょう
海戦で朝鮮水軍をほぼ全滅させた日本軍は、その後も数に優る明・朝鮮の連合軍を各所で打ち破ります。もしそのまま攻め込んでいたら、明を窮地に追い込んだ可能性は大いにありました。
しかし翌慶長三年(一五九八)、秀吉が病死したことによって、本国で豊臣政権を支えていた大名たちの間で対立が起こり、もはや対外戦争を続行する状況ではなくなりました。そこで豊臣家の五大老は秀吉の死を秘匿して日本軍に撤退を命じ、その年のうちに全軍が撤退することとなります。
この時撤退戦の最中に起こった
露梁
ろりょう
海戦において、明・朝鮮水軍が日本軍を全滅させたと韓国では伝えられています。この戦いの司令官、
李舜臣
りしゅんしん
は韓国では歴史的英雄と祭り上げられている人物ですが、露梁海戦で明・朝鮮軍が勝利したという事実はありません。
明・朝鮮水軍による待ち伏せの奇襲攻撃から始まった露梁海戦は、双方ともに損害を出した戦いでしたが、明・朝鮮水軍の主な将軍が多数戦死(李舜臣も戦死)しているのに対し、日本軍の武将はほとんど戦死しておらず、日本軍の勝利に終った戦いと考えられます。
韓国の歴史書や日本の一部の歴史教科書には、李舜臣はこの海戦以外にもたびたび日本軍を打ち破ったと書かれていますが、彼が戦果を挙げたといえるのは、開戦初期に護衛のない輸送船団を襲った時だけで、日本軍が護衛艦をつけるようになってからは、ほとんど手出しが出来ませんでした。また露梁海戦で朝鮮軍が使ったとされる亀甲船に関しては、完全なフィクションです。復元図なども後世の作り物ですが、なぜかこの亀甲船のことまでもが、日本の一部の歴史教科書にわざわざ取り上げられています。理解に苦しむ現状と言わざるを得ません。
また近年の教科書では、「慶長の役」で日本軍は苦戦したと書かれていることが多いのですが、これは必ずしも正しくありません。日本軍が「長慶の役」で明軍を圧倒していたことは中国も認めている史実です。『明史』(清の時代に編まれた)には、「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息(七年にわたる朝鮮での倭乱により、数十万の兵と数百万の戦費を失い、明と属国【朝鮮】には勝算はなかったが、関白【秀吉】の死により戦禍は終息に向かった)」と書かれています。
しかし日本もまたこの戦いにおいて、少なくない損害を出し、豊臣政権が倒れる原因の一つとなったことはたしかです。 |
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