秀吉が明を征服しようとした同機は不明です。歴史学者によって、信長遺言説、功名心説、領土拡大説など、様々な説が挙げられていますが、定説はなく、日本史の大きな謎の一つです。老いによる「呆け説」もありますが、計画そのものは周到に煉られており、この説には無理があります。
現代の歴史学者の大半は、日本よりもはるかに人口が多い国土も広い明を秀吉軍が征服するのは不可能であるとし、その計画は秀吉の誇大妄想と見做していますが、私はそうは思いません。「文禄の役」と「慶長の役」において、日本軍は戦闘では終始、明軍を圧倒していましたし、もし勝って蒙古軍のように捕虜とした朝鮮人を兵隊として用いるなどしていれば、明を征服することは決して不可能ではなかったと考えられます。
というのも、日本との戦いで疲労した明は、慶長の役の四十七年後、農民反乱指導者の李自成によってあっさり滅ぼされているからです。そしてその李自成も翌年、北方の少数民族である女真族(かつて「刀伊の入寇」で九州沿岸を荒らした民族)に滅ぼされています。女真族は漢民族に比べると圧倒的に少数ながら、その後、清しん帝国として中国を二百六十八年も支配しました。
清国の租であるヌルハチは、文禄の役の時、日本軍に苦戦すると明と朝鮮に、「援軍を送ろう」と申し出ましたが、朝鮮は「蛮族の助けまどいらぬ」とこれを断わっています。日本軍の将の一人、加藤清正かとうきよまさは女真族の力を測るために満州にまで攻め込み、女真族の城を攻略します。百年も続いた戦乱の世を生きて来た当時の日本武士たちは、これほど強かったのです。もしかしたら世界最強の軍隊であった可能性すらありまっす。こうした状況から、日本軍が明を征服するのはあながち誇大妄想の類ではないと思われます。歴史に「if」はありませんが、もし慶長三年(一五九八)に秀吉が死なず、日本軍が撤退していなければ、東アジアの歴史は大いに違ったものになっていたかも知れません。
ところで、近年の歴史教科書では、「朝鮮出兵」だ「朝鮮侵略」と記述いるものが少なくありませんが、他国に攻め込むことを侵略と書くなら、世界史におけるアレクサンドロス大王やチンギ・スハーンやナポレオンの遠征もすべて侵略と書かなければ辻褄が合いません。 |
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