慶長八年(一六〇三)、江戸幕府を開いた徳川家康は二年後に息子の秀忠に将軍職を譲りましたが、政治の実権はしっかりと握っていました。
慶長二〇年(一六一五)に豊臣家を滅ぼすと、家康は江戸幕府の支配を盤石にするための法律である「
武家諸法度
」を制定し、二百人前後いた全国の大名たちを管理下に置きます。
大名とは一万石以上の領地を持つ者で、江戸時代初期には全国で二百人ほどでしたが、中期以降は二百六十~二百七十人ほどになりました(
改易
かいえき
で家を取り潰された者もいれば、新たに大名になった者もいた)。当時は一人の人間が一年間で食べる米の量はおよそ一石とされており、つまり一万石の藩は一万人の人間を養える国力があると見做されていたのです。
もちろん徳川家が全国を直接治めたわけではありません。幕府の直轄領(天領)以外の全国の土地は、それぞれの藩主が支配し、法律も藩ごとに異なっていました。藩によっては領内でしか通用しない「藩札」という地域紙幣を使用しているところもありました。つまり戦国時代に生れた「分国法」に近いものが江戸時代にも受け継がれていたというわけです。この「
幕藩体制
ばくはんたいせい
」と呼ばれる仕組みは、日本独特の封建性といえるでしょう。
各藩は自治を認められてはいましたが、江戸幕府の命令には逆らうことが出来ず、改易(取り潰し)・
減封
げんぽう
(領地を減らされること)・
転封
てんぽう
(領地を替えられること)の命令が下った時には、従い他はありませんでした。ちなみに江戸時代に改易を命じられた大名家は、二百四十八家にも及びます。こうして江戸幕府は三代将軍・家光の時代までに、ほぼ盤石の体制を築くことに成功したのです。
ところで、現代では大名たちが治めた地を「藩」と呼んでいますが、この呼称は江戸時代にはほとんど使われておらず、公式名称でもありませんでした。したがって当時は藩主や藩士という呼び方もありません。武士たちが自分を紹介する時は、主君の名前の下に「〇〇家臣」や「〇〇家中」と名乗り、領地のことは「国」と呼びました。当時、「国」という言葉は一般には日本全体を表す意味ではなく、それぞれの地方を意味しました。現代でも「国」という言葉に、故郷や地方という意味があるのはこの名残です。
「藩」という言葉が正式に制度名として使われたのは明治元年(一八六八)でした。
そのわずか三年後の明治四年(一八七二)の廃藩置県によって、「藩」は「県」に置き換えられていますが、本書では便宜上、「藩」という言葉をもちいることにします。
家康は全国の諸藩を三つに分類しました。徳川家の血を引く「
親藩
しんぱん
」、関ヶ原の戦い以前から徳川家に忠誠を誓っていた「
譜代
ふだい
」、関ヶ原の戦い以後に服従した(あるいは元豊臣の家臣)「
外様
とざま
」の三つです。親藩や譜代の多くは、石高は少ないものの要地を与えられていたのに対し、外様の多くは石高が多くても僻地に追いやられていました。毛利藩はその典型で、関ヶ原の戦いの後、領地を大幅に減らされた上に中国地方の端に閉じ込められた格好となっていたのです。
外様は軍役などの負担も重く財政的にも苦しめられました。おそらく外様の藩士の徳川家への恨みは相当なものであったに違いありません。約二百六十年後、江戸幕府を倒す主力となったのが、こうした外様の藩士であったことは決して偶然ではないでしょう。
徳川幕府は、朝廷には「禁中並きんちゅうならびに 公家諸法度くげしょはっと」を定めて管理しました。長らく特権階級だった公家までもを「法度」という法律をもって管理下に置いた支配者は、家康が初めてでした。
なお寺院には「寺院法度」(これは宗派ごとに分けたものだったが、その後、一律にした「諸宗寺院法度」を出す)、神社には「諸社禰宜神主しょしゃねぎかんぬし法度」などを定めて管理したのです。
家康がこの世を去ったのは豊臣家を滅ぼした翌年です。江戸時代の終わり頃、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしまま食うは徳川」という落首が書かれた絵巻が出版されましたが、実にうまい譬えだったと思います。百年近く続いた乱世を収めたのは信長で、それを引き継いで天下統一を果したのは秀吉、家康はそれを巧みな政治手腕で奪ったといえるからです。秀吉の不運(と失敗)は後継者に恵まれなかったことでしょう。
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