~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
三代将軍・家 光
豊臣家が滅んだ八年後の元和九年(一六二三)、三代将軍となった家光は、祖父の家康に倣うように大名たちの改易、滅封、転封を行ない、巧みに彼らの力を削ぎました。
大名にとって、何より大きな財政負担となったのは、江戸屋敷(藩邸)参勤交代です。幕府は藩主の正妻と嫡子を江戸に居住することを命じたので(実質的な人質)、大名たちは江戸に屋敷を作らなければなりませんでした。また藩主自身も隔年で江戸に居住しなければならず、江戸屋敷にはそれなりの規模と人員が必要となり、かなりの出費となりました。さらに藩主が国と江戸を往復する際は、「大名行列」と呼ばれる戦時の行軍と同じ形態の多人数での行列を組んだので(家ごとに格式と規模が決められていた)、その旅費および宿泊費も多額なものとなりました。また大名たちは家の権威と格式を誇示するためにどんどん派手な行列を行なうようになり、さらに藩の財政を圧迫しました。中小の藩では、参勤交代と江戸屋敷にかかる費用が藩財政の八割を超えるところもありました。そのため、かつては参勤交代は「幕府が諸大名の力を削ぐために行なわれた」と見られていた時もありましたが、それは結果的にそうなっただけで、現代ではその説は否定されています。幕府はむしろ、無駄な人数による行列は支出が多くなるということで、「分相応に行なうように」というお触れを出しています。
江戸屋敷に詰める各藩の武士たちはというと、二年に一度、藩主に従って国から江戸に移る者もいれば、何年も江戸に暮らす者もおり、何代のもわたって江戸に住み続ける者もいました(大名屋敷の中の長屋に居住)。江戸時代の後期にもなると、国許の武士と何代も江戸にいる武士では、同じ藩士とはいえ、言葉も通じにくかったのではないかと思われます。
江戸の七割は武家地で、その大半を占める大名屋敷はいずれも広大なもので、その結果、人口の半分近くを占める町人はわずか一割強の土地(現在の東京都中央区、台東区、千代田区の一部)に住むという、江戸は都市としては非常にいびつな構造となりました。
江戸時代初期の江戸の人口は十五万人くらいだったという記述が残っていますが、その後、急激に増加し、 享保 きょうほ 期には百万人くらいになっていただろうと推計されています。十七~十八世紀のパリやロンドンが百万人に及ばなかったといいますから、江戸は世界最大の都市でした。
コラム-22
今日の目で見れば、無駄な支出と見える大名行列(参勤交代)ですが、国内的には大きな経済効果を生み出しました。というのも、大規模なものになると千人単位の大旅行ですから(大藩の加賀藩では多い時は四千名を数えた)、それにより、街道の整備、河川や渓谷の架橋、宿場町など、インフラが大いに整いました。また、庶民の経済や生活にも大きく寄与したといえます。それに江戸と地方の間で人や文化の交流が盛んになりました。
大名行列は平均すると一日に約一〇里(四〇キロメートル)進んだということですから、かなりのスピードです。面白いのは自国の城下町を歩く時は、領民に力を見せつけるために武士たちは派手な衣装を身に着け、また供の者にエキストラを動員して堂々と練り歩き、城下町を抜けて町はずれに出るとエキストラはお役御免として、武士たちも軽装に着替え、歩くスピードを上げたということです。
そして江戸に入ると、他の藩や江戸の庶民に見せつけるために、再びエキストラを雇って派手な行列にしたそうです。当時の大名がいかに体面と見栄を重んじたかということがわかります。
また庶民も、華やかな大名行列を見物するのを楽しみとしていたこともあり、各藩もそれに応じて派手さを競った一面もありました。ただ藩主が通る行列ですから、それなりの厳しいしきたりがありました。行列の前を横切ることは非常に無礼な行為とされ、場合によってはその場での「無礼打ち」も認められていました。しかし実際には先導役の旗持がいて、庶民に行列が来ることを知らせるので、そんなことは滅多に起こりませんでした。後述する幕末の「生麦事件」は、行列の風習を知らない外国人で、しかも言葉がわからないことから生じた不幸なアクシデントです。
面白いのは、飛脚と産婆は列を乱さない限り、大名行列の前を横切ることが認められていたということです。
2025/10/11
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