政治は老中と呼ばれる者たちが執り行いました。老中は現代風に言えば首相など閣僚にあたり、親藩や譜代大名(藩主)の中から有能な者が選ばれました。ただし、幕末に至るまで、いかに大藩といえども外様大名から選ばれることはありませんでした。
将軍は世襲でしたが、本家の血筋が絶えた時のために、家康の男系男子から御三家(尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家)および、家康の血を引く子供の受け皿(養子)にする大名をこしらえました。家康の脳裏に、三代で絶えた鎌倉の源氏将軍のことがあったのかどうかはわかりませんが、徳川家の将来までも見据えた用意周到なシステムでした。
ただ水戸家はそのために作られた家ではなく、駿河徳川家が断絶されたことによって御三家に格上げされたという説があります。また真偽は不明ですが「水戸家からは将軍を出さない」という定めがあたっという話もあります。
水戸藩には独特の気風があり、伝統的に皇室に対する尊崇の念が特に強い家でした。
「徳川家と朝廷との間に戦があれば、幕府に背いても朝廷側に弓を引いてはならぬ」という水戸光圀以来の家訓があったという話も残っています(『昔夢会筆記・徳川慶喜公回想録』より)。そのせいなのかどうかわかりませんが、水戸藩主は他藩のように参勤交代はせず、基本的に定府じょうふ(常に江戸屋敷にいること)と決められていました。
水戸藩は幕末の日本に大きな影響を及ぼすこととなりますが、それは後に述べます。 |