家光の時代に行なわれた、日本史に最も大きな影響を与えた政策が「鎖国」です。
徳川幕府は秀忠の時代から幕府はキリスト教を禁じ、海外貿易も制限するようになったいましたが、
寛永
一二年(一六三五)に日本人の海外渡航を禁じ、国外にいる日本人の帰国も禁止します。そのため商人や漁師が漂流して外国に流れ着いた場合、再び祖国の土を踏むことが許されなくなりおました。一般には寛永一六年(一六三九)のポルトガル船の入港を禁じたことによって「鎖国」が始まったとされています。
徳川幕府が鎖国に至った理由の一つは「島原の乱」です。寛永一四年(一六三七)、九州の島原と天草で、四万近くの農民と浪人となった武士たちが一揆を起こしましたが、幕府は十二万人の軍勢を送って鎮圧します。この一揆に加わった農民の中に多数のキリスト教信者がいたことから、幕府はキリスト教に対する弾圧を一層強め、同時にオランダと中国(当時は明、後に清)以外の外国船の入港を禁じました(他に交易を許されたのは朝鮮と琉球だけ)。窓口は長崎、対馬、松前の四つに限られたのです。
ただ鎖国という言葉が使われだしたのは江戸時代の後期であり(蘭学者の志築忠雄がケンベルの著作を訳した『鎖国論』で初めて用いた)、その言葉が歴史用語として定着したのは明治以降です。そのため近年では、日本は鎖国状態ではなかったという歴史学者もいます。しかし前述の国以外とは交渉も通商もせず、幕末までの二百数十年の間、ヨーロッパの多くの文化や科学技術が入って来なかったことや、世界の情勢に無関心であったことから、「鎖国」状態であったというのは間違いありません(出島のオランダ人を通じて、世界の様々な情報は入ってはいたが、人々の間に広まることはなかった)。
つまり日本は、ヨーロッパの国々が「大航海時代」を経て世界進出を果している時代、その動きに背を向けていたというわけです。しかし、この平和的孤立が二百年以上も続いたのは、四方を海に囲まれている上に、ヨーロッパから遠く離れていたという地理的な条件に恵まれていたからに他なりません。
もう一つ大きな理由は「武力」があったからです。江戸時代の前期は戦国時代を引き継いでおり、幕府も各藩もかなりの武器や兵力を有していました。そのため、大航海時代で世界のほとんどの有色人種の国々を植民地にしていたイギリス、スペイン、ポルトガルなども、武力を背景に日本に開国を迫ることは出来なかったのです。ちなみに同時代の中国も朝鮮も鎖国政策を取っていました。
ところで琉球国は慶長一四年(一六〇九)に薩摩藩に服属させられていました。もっとも、明の冊封(後に清の冊封)も受けており、二重外交を続けている状態でした。
蝦夷地(現在の北海道)には今日アイヌと総称される人々も住んでいましたが、江戸幕府は以前から内地人と交流があり、十七世紀になってからは松前藩に支配されました。アイヌの祖先は北海道に暮らしていた縄文人であるという説を流布させる向きもありますが、これは正確ではありません。最近の遺伝子分析によって、アイヌと呼ばれる人々は北海道にいた縄文人と、カムチャッカ半島や樺太から入って来たオホーツク人との混血だとわかっています。また、江戸時代初期からアイヌの人々と内地の日本人との混血が進んでいたこともわかっています。、
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