~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
鎖 国
家光の時代に行なわれた、日本史に最も大きな影響を与えた政策が「鎖国」です。
徳川幕府は秀忠の時代から幕府はキリスト教を禁じ、海外貿易も制限するようになったいましたが、 寛永 かんえい 一二年(一六三五)に日本人の海外渡航を禁じ、国外にいる日本人の帰国も禁止します。そのため商人や漁師が漂流して外国に流れ着いた場合、再び祖国の土を踏むことが許されなくなりおました。一般には寛永一六年(一六三九)のポルトガル船の入港を禁じたことによって「鎖国」が始まったとされています。
徳川幕府が鎖国に至った理由の一つは「島原の乱」です。寛永一四年(一六三七)、九州の島原と天草で、四万近くの農民と浪人となった武士たちが一揆を起こしましたが、幕府は十二万人の軍勢を送って鎮圧します。この一揆に加わった農民の中に多数のキリスト教信者がいたことから、幕府はキリスト教に対する弾圧を一層強め、同時にオランダと中国(当時は明、後に清)以外の外国船の入港を禁じました(他に交易を許されたのは朝鮮と琉球だけ)。窓口は長崎、対馬、松前の四つに限られたのです。
ただ鎖国という言葉が使われだしたのは江戸時代の後期であり(蘭学者の志築忠雄がケンベルの著作を訳した『鎖国論』で初めて用いた)、その言葉が歴史用語として定着したのは明治以降です。そのため近年では、日本は鎖国状態ではなかったという歴史学者もいます。しかし前述の国以外とは交渉も通商もせず、幕末までの二百数十年の間、ヨーロッパの多くの文化や科学技術が入って来なかったことや、世界の情勢に無関心であったことから、「鎖国」状態であったというのは間違いありません(出島のオランダ人を通じて、世界の様々な情報は入ってはいたが、人々の間に広まることはなかった)
つまり日本は、ヨーロッパの国々が「大航海時代」を経て世界進出を果している時代、その動きに背を向けていたというわけです。しかし、この平和的孤立が二百年以上も続いたのは、四方を海に囲まれている上に、ヨーロッパから遠く離れていたという地理的な条件に恵まれていたからに他なりません。
もう一つ大きな理由は「武力」があったからです。江戸時代の前期は戦国時代を引き継いでおり、幕府も各藩もかなりの武器や兵力を有していました。そのため、大航海時代で世界のほとんどの有色人種の国々を植民地にしていたイギリス、スペイン、ポルトガルなども、武力を背景に日本に開国を迫ることは出来なかったのです。ちなみに同時代の中国も朝鮮も鎖国政策を取っていました。
ところで琉球国は慶長一四年(一六〇九)に薩摩藩に服属させられていました。もっとも、明の冊封(後に清の冊封)も受けており、二重外交を続けている状態でした。
蝦夷地(現在の北海道)には今日アイヌと総称される人々も住んでいましたが、江戸幕府は以前から内地人と交流があり、十七世紀になってからは松前藩に支配されました。アイヌの祖先は北海道に暮らしていた縄文人であるという説を流布させる向きもありますが、これは正確ではありません。最近の遺伝子分析によって、アイヌと呼ばれる人々は北海道にいた縄文人と、カムチャッカ半島や樺太から入って来たオホーツク人との混血だとわかっています。また、江戸時代初期からアイヌの人々と内地の日本人との混血が進んでいたこともわかっています。、
コラム-23
、起こり得なかったことを論ずるのは歴史の本ではタブーとsれていますが、もし日本が鎖国政策を取らなかったらという仮定は、非常に面白い考察です。
江戸幕府が日本人の海外進出を認めるか、あるいは積極的に勧めていたなら、どうなっていたでしょう。当時、世界有数の鉄砲保有国である日本の兵力をもってすれば、東南アジアを支配下に収めていたと思われます。実際、江戸時代初期にシャム(現在のタイ)に渡った山田長政が日本人の武士を率いてシャムの中のゴールという地方の王(領主)になった例があります。
当時フィリピンはスペインに支配されていましたが、もしフィリピンでスペインと戦えば、地の利がある日本が勝利した可能性が高いと思われます。同じ理由でインドネシヤに拠点を置いてオランダとの戦いにも勝利したでしょう。
日本のアジア支配と進出経路はインドシナ半島からビルマ(現在のミャンマー)経由でインドに至るのが自然な流れです。そうすると十七世紀の後半頃にインドの支配をめぐってイギリスと一戦交えていた可能性も否定できません。おそらくその戦いは海戦になったでしょうが、スペインの無敵艦隊を打ち破ったイギリス海軍(この海戦が行なわれたのは天正一六年【一五八八】)が若干有利といえるかも知れません。
また朝鮮半島に進出していたらどうだったでしょう。先の「文禄の役」と「慶長の役」の戦いを見てもわかるように、朝鮮軍は日本軍の敵ではありませでした。一六〇〇年代初めには、崩壊寸前だった明には朝鮮に援軍を送る力はなく、朝鮮半島は日本の支配下に置かれたと想像出来ます。日本はそのまま大陸へ進出し、一気に明を滅ぼしいた感応性もあります。
ただ女真族が率いる後金こうきん(後の清)との対決はかなり苦戦したと予想されます。騎馬民族の女真族は平原における戦いを得意としたからです。もっとも、織田・徳川連合軍が長篠の戦いにおいて、日本最強といわれた武田の騎馬軍団を鉄砲隊で潰滅させていることを考えると、女真族の騎馬部隊を打ち破った可能性もあります。
もし日本がインド洋大開戦と大陸での大会戦二つの戦いのどちらか一つにでも勝っていれば、世界の歴史は大きく変わっていたでしょう。少なくとも今日の世界とは、まるで違ったものになっていた可能性があります。
ただ、日本には虐殺によって他国を完全服従させ、他民族を奴隷化する伝統はなく(ヨーロッパは古代からそうである)、その甘さゆえに、後にヨーロッパ諸国が行なったように中国大陸や東南アジアを支配出来たかどうかははなはだ疑問であります。しかしもしかしたら、大東亜文化圏のようなものが生まれ、膨張するヨーロッパ諸国に対抗し得たかも知れません。
2025/10/12
Next