幕府は武士を頂点とする身分制度を定めました。武士は特権階級で苗字を名乗ることと刀を持つことが許されていました。かつては「士農工商」という言葉があり、士は武士(僧侶を含む)、農は農民(漁師を含む)、工は職人、商は商人を指しましたが、近年、歴史教科書からは消えました。
この言葉は古代中国の歴史書から引用されたもので、実際は武士である「士」と「農工商」と分けただけのものでした。「農・工・商」の間に身分の上下はなかったのです。「工・商」はわかりやすく言えば都市部んみ住む町人のことです。町に住む職人は町人とされ、農村に住む職人は農民とされたというだけのことです。
それぞれの人口比は、武士は人口の七パーセント前後、農民は七五~八三パーセント、町人は一〇~一七パーセントくらいと言われていまっすが、はっきりとした統計はなく、また藩によっても時代によっても割合が異なるため、この数字は目安にすぎません。
この他に約二パーセントの賤民階級がありました。皮革業を生業とした
穢多
、刑罰などによって賤民に落とされた非人と呼ばれる人々です。その身分は明治になって市民平等が謳われても完全な形で消えることはなく、現代においてもなお社会問題として残っています。
皇室や公家は格別の身分とされていました。皇室は幕府から三万石の領地(
禁裏御料
きんりごりょう
)が、朝廷に仕える公家たちは十万石の領地(公家領)が与えられていて、なんとかやりくり出来ましたが、中級以下の公家は朝廷からの俸給も少なく、和歌や書道を庶民に教えたり、百人一首のカルタや花札の絵を描いたり、屋敷の一部を博打打ちに貸したりして生計を立てていました。
幕府は「士」と「農工商」とを区別したとはいえ不変で厳格なものではありませんでした。下級武士である足軽と農民の間にははっきりした線引きはなく、特に「中間ちゅうげん」と呼ばれる下級武士は、武士と農民の中間的な存在であることから、その名が付けられました。苗字を名乗れるのは武士に限られていましたが、実は農民や町人たちの多くも苗字持っていました。ただ公式には名乗れなかったというだけのことだったのです。江戸時代の農民や町人には苗字がなかったというのは大きな誤解です
幕府は身分や職業を世襲としましたが、これも有名無実化していました。江戸の後期になると、旗本や御家人に持参金を持って養子に入れば、町人でも容易に武士になれたのです。この行為を「御家人株を買う」と言います。表向きは武士の身分を金銭で買うことは禁じられていましたが、実際のところは黙認されていました。幕末に軍艦奉行となった旗本の勝義邦かつくによし(海舟かいしゅう)の曾祖父は町人でしたが、御家人株を買って名目上は徳川直参の家臣となっています。同じく幕末の京都で恐れられた新撰組も、もとは町人や農民であった隊士が何人もいました(局長の近藤勇こんどういさみは農民であり、副長の土方歳三ひじかたとしぞう
も農民出身で薬売りであった)。
このように江戸の身分制度は時代によってはとてもフレキシブルであり、ある意味、近代的な感覚を備えたものだったともいえます。
なお江戸時代の法律である「公事方御定書くじがたおさだめがき」には、武士が町人や農民から無礼な仕打ちや侮辱を受けた時は、斬り殺しても処罰されないと書かれていますが(これを「切捨御免」という)、実際にはよほどの理由がない限り、町人を斬り殺して免罪となう例は少なく、多くの場合斬った武士も処罰されました。江戸時代は刀を抜いただけでも大ごとになったため、多くの武士が公の場で刀を抜く機会など一生に一度もなかったと言われています。ちなみに江戸城内では、刀を抜いただけでも切腹でした(二百六十五年間七回あったと記録されている。「赤穂あこう浪士」で有名になった松の廊下事件もその一つ)。もっとも武士の体面を重んじる藩もあり、斬捨御免が認められていた藩もあります。
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