慶安四年(一六五一)に三代将軍・家光が死去し、家光の長男である
家綱
が十歳四代将軍となりました。幼い家綱が政務を執るのは難しく、老中や若年寄などが彼をささえることとななりました。この時代になると、徳川政権の基盤が固まり、戦国の荒々しい空気が希薄になったこともあって、それまでの武力を背景にした武断政治から文治政治へと舵が着られます。
家綱は温厚な人柄で、長じて絵画や釣りを好み、政治は老中たちに任せていました。彼らが政策面での確認を求めると「
左様
さよう
せい」(そのようにしろ)と言ったことから、「左様せい様」という渾名が付けられていたほどです。関ヶ原の戦いから半世紀も過ぎると、徳川将軍にも随分おっとりした男が生まれたものです。
家綱の在職中、「
明暦
めいれき
の大火」と呼ばれる大火事が起き、江戸城の本丸も含めて、多くの武家屋敷や神社仏閣が焼けました。家綱はそれらの復興に多額の費用を充てます。また火事から避難しやすいように両国橋を架け、橋のたもとには「
火除地
ひよけち
」を設けてすぐ壊せる建造物しか許可しませんでした。その「すぐ壊せる」ということから土俵が作られ、後に両国は相撲の町として栄えたのです。
家綱は身体が弱く、嫡男をもうけることなく亡くなったため、館林藩主となっていた徳川
綱吉
つなよし
(家光の四男)が将軍職を継ぎました。
徳川五代将軍となった綱吉は「生類憐しょうるいあわれみの令」で知られる将軍です(これは何度かにわたって出された一連の御触れを指す)。この令によって、犬や猫などの動物を殺した者は死罪や切腹を命じられました。さらには釣りをしただけで流罪になたtり、鳥が巣をかけた木を切って処罰されたり、この法によって罪人とされた者は夥しい数に及びました。
綱吉はもともとは聡明な将軍であったといわれています。「生類憐みの令」も儒教や仏教に則って弱者へのいたわりを重んじ、生物の命を粗末に扱ってはならないという精神から出されたものでしたが、行きすぎた法律と運用がしばしば天下の悪法となるという悪しき見本です。
幕府は「生類憐みの令」を守るようにと全国の藩に通達していますが、それが尊守されたのかどうかは疑問です。というのも、尾張藩(徳川御三家の一つ)の御畳おたたみ奉行、朝日あさひ文左衛門ぶんざえもんが残した同時代の日記『鸚鵡籠中記おうむろうちゅうき』には、敢えて禁を犯す目的で釣りや投網を七十六回もしたことが記されているからです。
当時の人々がこの悪法を嫌悪したのは当然ですが、綱吉の評判の悪さはそれだけが原因ではありません。元禄げんろく八年(一六九五)の奥州の飢饉、元禄一一年(一六九八)の勅額ちょくがく大火、元禄一六年(一七〇三)の元禄大地震、元禄一七年・宝永ほうえい元年(一七〇四)の浅間山噴火、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火、宝永五年(一七〇八)の宝永の大火などです。当時は、災害を「天罰」と捉える風潮があり、為政者のせいだと考えられていましたから、その意味で綱吉は不運な将軍だったともいえます。
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